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成基真人・慈程真人・堅基真人・蘊基真人・大覺真人・固基真人・刼化真人(九江殉慈先烈)

   黙真人の項目で書いたその他の真人の方々の略史も翻訳いたしました。道院創立時の人々の活躍や当時の院会の規模を知ることができます。それでは各真人の略史を『聖哲略史』より転載いたします(日本総院では下記の真人の方々を祀勲室にて祭祀しています)。

 

成基真人

   喬素苞(素苞は道名)。諱は保衝、字は亦香。河北天津の人。家は質素で豊であった。清朝内閣中書。北安陸府の知府(知事)に任命されるが、辞退し赴かず。

  商業を営み、敦慶隆綢緞(※)を設立し、天津において営んだ。自らは北京に住み、修養を求めていた。済南母院が成立するとすぐに入修し研道する。また京兆道院(※)を創設し、統掌に任じられた。その後、総院が北京にできると改めて統掌に任じられる。黙真人が證果(※)すると、母院の値季統掌(※)を兼任し、母院と総院の間を往来し、道慈の宣揚に努めた。徐素一と共に宗壇の事務の責任を持ち、取り仕切った。

  第四母壇(※)は真人の北京の邸宅に設けた。正院(母屋)を母壇として用いて、自らは東南の隅に小楼を建て、そこに住んだ。豊功偉績により各地の同修は畏敬の念を持った。真人が帰道すると、公子(家督を継ぐ男児)法鈴が善く継ぎ、善く行った。後に宗総の責を負い、母院、天津主院の首席統掌の職を兼ね務めた。

※敦慶隆綢緞:会社の名前。当時の天津はサテンなどの繊維の売買が盛んで、天津の商売を支えた「天津八大家」という八つの商家があり、その一家として名が残る。

※京兆道院:1921年の創立で円源の寓宅に作られ、後に同地に北京総院が成立する。

※證果:證は証明、果は成果。一生の成果を証明される、即ち亡くなり、その一生を老祖様より認められること。

※値季統掌:済南母院の統掌は黙真人(杜黙靖)が初代統掌を務められていた。亡くなられ、その後は徐素一(堅基真人)を統掌として、素璞(固基真人)、素苞(成基真人)、福縁、素定、性空が、季節ごとに交代して素一の業務を代行することが任じられた。それを値季統掌という。

※徐素一:後の堅基真人。第四代中華民国大総統の徐世昌の実弟。

※第四母壇:1923年『太乙正経午集』が伝授されるときに、各地に伝経壇を設けるよう訓があり、第二母壇~第四母壇(第一は済南母院の壇)まで設けられ、『太乙正経午集』はこれらの壇で伝授された

 

慈程真人

  王道程(道程は道名)。諱は善荃、字は仲薌(安慶道院統掌)。安徽盧江の人。光緒丁酉(※)の科挙に受かる。学問は湛深、新舊(新旧)を融合し、多年政務に就く。京師の検察廳廳丞、福建省の省長を歴任する。その治績は昭著であった。入修すると弘道揚慈し、救済事業に心を盡くし力を竭くした。奔走し備えを勧め、その地に至ると院会を設置することを説き、普渡へ導いた。そのため、同修から敬仰されるようになった。

※光緒丁酉:光緒は清の年号(1875~1908年)。その中の丁酉は1897年

 

堅基真人

  徐素一(素一は道名)。諱は世光、字は友梅。河北天津の人。清の光緒期の進士で、法然統監(法の管理者)の助言者となる。早くから政務に従き、その著しい声望は卓越していた。濮陽の大工(だいこう/インフラ整備)を監督、弁理(処理)した際、その仕事は最も世のためになったと称された。詩文、書画に精通し、修養の基本の心得として好んで墨梅を書いた。 黙真人(杜黙靖)、固基真人(何素璞)、成基真人(喬素苞)と金蘭の交わりを結ぶ。

   辛酉年に母院が成立すると堅基真人が一番初めに修籍に参入し、排名の第一人目となった(※)。当時、杜黙靖と何素璞が済南にて佈化し、喬素苞が北京にて院を組織した。堅基真人は天津において院会を組織し、首席職位に任じられる。その信仰は堅誠で、真人は全てを主催し、切り盛りした。その後、首席宗監、宗掌、宗主(※)を歴任する。毎年、宗母総の会議(※)を開き、皆自ら参画した。真人は大会において修人の道服制度(※)の詳細を議決することを求め、制度化した。晩年は天津に靜居し、修養につとめ、毎日宗壇津院に必ず行き、道慈の事務を処理し、同修と談じた。

  人には常に「人生を振り返ると、道を修め、慈を広めることが最も安楽であった」と語った。

※光緒丁酉:光緒は清の年号(1875~1908年)。その中の丁酉は1897年

※排名の第一人目となった:済南道院の扁額「素圓惟靈」の最初の文字「素」と排名用漢詩の最初の文字「一」がつき、「素一」という道名が決定されている。

※首席宗監、宗掌、宗主:道院の職の一つ。宗がつく役職は一つの道院に限定された職ではなく、全体の院会を司る職(大地区を司る場合もある)。宗主が最高位。

※宗母総:宗(そう)は天津宗院、母は済南母院、総は北京総院を指し、この3つの院が道院運営の中心となっていた。宗壇(天津宗院)、母院(済南母院)、総会(北京総院)と呼ぶ場合もある。

※道服制度:各役職により服、冠、襷、靴などの色、入れる文字(各部位に文字が縫われていた)、修寶の種類など細かく設定されていた。『道慈綱要禮儀篇』に当時の道服制度の詳細が載る。

 

蘊基真人

蘊基真人(熊希齢)

   熊妙通(妙通は道名)。諱は希齢、字は秉三。湖南鳳凰の人。清朝の翰林(※)。世を重んじた文章書法に政聲があった。民国初の熱河郡国務総理となる。

   平素から慈善事業に熱心で、香山靜宜園(※)の中に慈幼院(※)を創設する(孤児を養育し教育し、生きるための技能を授けた。木工鉄工織布……等の自立する術を与えた。同時に幼稚師範を設置する。これは我が国(中国)での幼稚教育師育の嚆矢である)。その設備は完璧だと世界から称される。自ら入修した後は、道慈を提倡し、力を尽くした。総會會長を務め、誉の徳望高く、多くの成果を残す。

※翰林:皇帝の詔勅を文章化に関わる役職

※香山靜宜園:北京市海淀区にある大公園。香山園として現在も続く。

 ※慈幼院:現在でも北京市立新学校として使われている。

 

大覺真人

  郭春谿(春谿は道名)。諱は廉、字は湖泉。江蘇の人。清朝の舉人(※)。魯省の法官に任じられる。黙真人や諸公と共に道院を創始する。長く母院坐掌を務め、その深い奥詣への理解と諦り(悟り)により、新修を指坐し、ことごとくその心を導いた。道慈の真旨を発揚し、同修から敬仰された。派され各地の坐会へ出席し、その力を発揮した。宗総および南北各院を往来し、辛労を辞さず、広く伝え大勢を化した。その数十年は一日の如くであった。

※舉人:科挙の合格者

 

固基真人

  何素璞(素璞は道名)。諱は澍、字は仲起。浙江山陰の人。清時代、魯省の政務に就く。黄河下流の総弁(管理長)を代わりに任じられる。また按察使となる。民国になると政務に就く気はなく、事業に従事し、益都縣(青州)城内の營街に隠居する。古書画を善く収蔵した。

  はじめ同善社(※)に入り、1921年母院が成立するとすぐに道院へ入会した。道長を任じられ、十一年に益都院会が成立した時は寓舎を建設した。黙真人が證果(※)されると母院の値季統掌(※)に任じられる。のちに母院首席統掌に任じられる。すると済南に居を移し、道慈の弁理に専心する。道院卍会を進展させ、宗壇總會(※)や各地を奔走し、宣揚渡化した。

  母院の建築が始まると、様々な煩雑な事があったが毅力を恒(つね)に堅く保ち、道基を定め、各地を指導する。同修は敬仰したという。威を佩(はい)し、その功行は偉大である。帰道(死亡)の後、證果され、道勲院の入祀し、典礼に列する。

※同善社:道院と同じころに北京に起こった修養団体。

※證果:證は証明、果は成果。一生の成果を証明される、即ち亡くなり、その一生を老祖様より認められること。

※値季統掌:済南母院の初代統掌は黙真人(杜黙靖)が務められていた。亡くなられ、その後は徐素一(堅基真人)を統掌として、素璞(固基真人)、素苞(成基真人)、福縁、素定、性空が、季節ごとに交代して素一の業務を代行することが任じられた。それを値季統掌という。

※宗壇總會:宗壇は天津院、総会は北京院のこと

 

刼化真人

  王春山。自ら入修して以来、院を興し會を設けた。労を担い怨に耐え、艱難を避けることはなかった。丙寅年(1926年)に救済隊蘇皖連隊(※)の一隊の督隊長に任じられる。隊を率い、江西戦区(※)救済に向かう。九月初十日定期船の九江輪(船の名)に乗ったが、船が爆炸に遭い、殉教をとげる。

  訓により刼化真人に封じられる。

  同隊の高監暘滋は滋道使者に錫位される。

  顧南和は和通使者に錫位、

  甘元性は性浄使者に錫位、

  呉弘吉は吉相使者に錫位、

  王元化は化塵使者に錫位、

  戴宏靄は靄光使者に錫位、

  邵阜成は咸明使者に錫位、

  胡乾同は同浄使者に錫位、

  余濟芝は芝香使者に錫位、

  王宏群は群徳使者に錫位、

  端木瑜璣は璇璣使者に錫位、

  譚塵休は了塵使者に錫位された。

  卍會各院は一律に神位を設け、その勲と労を奬(賞)した。

(統して九江殉慈先烈(※)と称される。詳しくは『道徳精華錄巻五 卍聯隊殉慈述略』に詳しい)

※救済隊蘇皖連隊:救済隊は紅卍字会が組織する実働部隊のこと。災害や戦地で活動する。蘇は江蘇省、皖は安徽省を指す。

※江西戦区:中華民国の政府の一つが置かれ、日中戦争では戦場となる。

※殉慈先烈:殉教、殉教者

 

 

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