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常儀礼・黙真人誕日祭典(黙真人略史)

   農歴九月十五日(2020年10月31日)に、常儀礼と黙真人誕日祭典を行いました。

   黙真人は済南母院の初代統掌であり、帰道後(亡くなった後)に真人として祭祀された初めての方です。樞府統院責任掌籍として統院に祭祀されています。黙真人の略史を冊子『聖哲略史』より転載いたします。

 

黙真人

  (1854~1923.4.4)(※)。杜公黙靖、諱は秉寅、字は賓谷。江蘇淮安の人。清朝において魯省政に従事する。以って営務處總辯の候補になり、執法は厳明、剛性で贔屓(えこひいき)せず。

   初め、同善社(※)に入り坐功を習する。後に我が院の伝経と授坐を聞き、すぐに入修し、恭しく經と坐に預かる。最初の創院の三十六人の領袖となり、道院が成立すると第一に統掌の職を任じられた。この時、何素璞(※)が済南に在し、徐素一(※)が天津に在り、喬素苞が北京に在り。均しく金蘭の誼を係し、同じくその肩に道慈を鉅任する。

  南北各省の院会は次々と進展した。九年目の秋、真人の懸弧之慶(※)に値(あ)たり、諸同修が祝辞を述べ友好を示す。一堂済済六十人が集まった。その後、訓示があり、来年のこの祝いの時、各地の院会が設けられる数と祝祭に集まった数(六十人)は相同となると示された。翌年の同日、友人が雲集し前回の如く盛況であった。しかして各地の院の成立はちょうど六十處であった。これにより同修の進行は益々堅固となった。

   皆は真人の修範を宗とした。真人は早朝に起き院へ向かう。道慈の事務を処理し、各地の代表と接見し、必ず自ら仕事を行った。寒暑の間断なく、昼食は家で準備し院に送り、院で食すことが常であった。夫人は女社社長に任じられ、女社にて尊敬された。乾坤修方は日に増加し、普く進展した。皆、真人夫婦の領導の力による。

   真人が帰道される際、すでに修人として認められるに十分に足る資質を有していた。この日も早朝から起床し、精神も飲食も全ていつもと変わりがなかった。院に赴き、楊硯農(道名・慈修。真人の甥で漢方医)がちょうど来て、談じていた。真人はこのごろ体がいつもと違う感覚がある。試しに脈を診てくれないかと語った。楊君は脈を診ると、六脈は正常で病気の兆候はないと伝えた。真人はこれに頷き、しばし談笑していた。膻中はどこにあるかと真人が問い返し、楊宇治がこれを指し示すと、真人は応じ一声すると端座し目を少し閉じられた。頭を少し垂れ、そのまま帰道された。この時、楊君はそばに在ったが、帰道されたことに気づかなかった。この時、香りが部屋に満ち、久しく散ずることはなかったと皆聞いている。

   次の日の早朝、泰安賈公子羽(詳細は後述)から手紙が寄せられた。その手紙には昨日の早朝、聖僧濟公(※)が杜賓谷(黙真人の本名)を連れて、南海大士(※)主催の祭会へと去っていった。私(賈公)の荘を通り、その際に杜公より道院同修へ託されたと書かれており、黙真人の言葉として「災刼は日に日に重くなる。速やかに各自修行するように。院会の初創で遽(にわか)に余が塵世を離れることが、同修はその信誠に影響を受けてはならない」と。言い訖(お)えると去っていった。賈公はすぐに手紙をしたため、一切を詳述すると共にその時刻を記入した。道院の人々はこの手紙を閲し、真人が帰道された情景を知ることができ、衆心は落ち着きはじめた(手紙の原本は現在も院に保存している※)。

   賈公は岱山の麓に隠居し、とても盛名であった。神鬼と能く話し、当時の人々は賈神仙と呼んだ。霊異事蹟がとても多く、その門弟も衆をなした。

   候素爽(※)(キリスト教徒)が訓を奉じて救済事業のために、寶籙(※)を佩し各地へ向かった。途中、岱山の麓を通るため賈公に謁しよと予定していた。その門に至ると小童が待っており、その小童が告げるには「師(賈公)より囑(たの)まれたので伝えます。『相見することはできない。君(候素爽)が佩するのは老祖の寶籙であるから、大礼(礼儀上の相見時の礼)をする必要はない。候君が至(く)ることは預め知っていた。そして寶籙を佩していることも。その靈蹟は遐邇(遠近)の全てを知る。そのため黙真人の帰道(死去)の甚近に手紙を送ることができた。済南と泰安(岱山)はともに遠くその距離は二百里に及ぶ。電文といえどもこのように迅速ではない。黙真人が賈公に諄(ねんごろ)に手紙を頼んだからこそ、その至意に實に寓することができる』と」。

   数年後、道院の大会にて黙真人の三献禮を予定し呈報(※)すると、真人の誕慶には五献典儀を行うべしとの訓があった。修人たちはこれを誇りに思った。

(冊子『聖哲略史』より)

 

※黙真人の生年没年:1854~1923.4.4とあるが、これは山東省関連の中国語のサイトに載っていたもの。

※同善社:道院と同じころに北京に起こった修養団体。

※何素璞:後の固基真人。黙真人が帰道後に母院値季統掌を経て、母院の首席統掌となる。(略史

※徐素一:後の堅基真人。第四代中華民国大総統の徐世昌の実弟。(略史

※喬素苞:後の成基真人。敦慶隆綢緞を営む。敦慶隆綢緞は天津の商売を支えた「天津八大家」という商家の一つ。(略史

※懸弧之慶:男性の誕日祝祭のこと。門の左側に弓(弧)を立てかけたことから懸弧之慶という。

※聖僧濟公:濟公活佛のこと。道院にて慈院掌籍として祭祀する

※南海大士:観音菩薩の異称。道院にて女社掌籍として祭祀する。(略史

※手紙の原本は現在も院に保存している:この原文が書かれたのは済南母院が機能していたころの文章であり、現在、この手紙の所在は不明。

※候素爽:世界紅卍字会済南分会会長・候延爽のこと。素爽は道名。日本に派され、出口王仁三郎聖師と提携する。

※寶籙:ほうろく。老祖様から与えられる護符などを指す。現在も統寶(とんぱお)などがある

※呈報:ていほう。神仙に諸問題の判断を扶乩にて問うこと。

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