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道院が日本に伝わるまでの経緯(出口王仁三郎聖師との提携 )

 

「真善美愛 至聖太乙老祖」出口聖師書

 

   農歴七月(西暦8月、9月)は日本の道院にとって重要な働きをされたお二人の誕日祭典が続きます。そのお二人とは、大本(教)の出口王仁三郎聖師と大正・昭和と中国各地で領事として活躍された林出賢次郎初代統掌です。

   道院は1923年に大本(教)の出口王仁三郎聖師(道名 尋仁)との提携をしたことが契機となり、日本に伝わります。そのため、道院でも出口王仁三郎聖師の誕日祭典を行っており、農暦七月十二日(今年は8月19日)に予定しています(出口王仁三郎聖師は道院では霊績真人兼中和成化普渡天尊として統院に祭祀しています)。

   また、その3日前の農歴七月九日(今年は8月16日)に、提携に重要な端緒を作られた林出賢次郎初代統掌(勷承真君として統院に祭祀)の誕日祭典があります。どちらの祭典もどなたでもご参加いただけます。お問い合わせフォームからお申込みください。

   これより数回に分けて道院が日本に伝わった際の経緯をご紹介したいと思います。

 

【道院と出口聖師】

     道院は中国山東省済南に辛酉年(1921年)に創始されます。そこから瞬く間に中国各地に支部ができ、早くも1923年に大本(教)の出口王仁三郎聖師と提携します。そして翌年1924年に神戸に日本初の道院が開院され、道院が日本に開設されます。

  今回は、昔の会報誌より道院が伝わる前に出口聖師が提携を予め予見されていた記録をご紹介したいと思います。提携から第二次大本弾圧まで記されていますが、全文掲載いたします。

 

『世界紅卍字会の特使訪日の追想』

記:山口利隆(道名 道隆)

 

真善美愛 至聖太乙老祖

  大正12年(1923年)1月、私が綾部の大本教主殿の一室で『霊界物語』の原稿を、日日数人の人達と机を並べて浄写させて頂いていた頃のある日のことでした。出口王仁三郎師(道名 尋仁)がその室へ来られて半紙を下さり「それを見よ」と言った身振りで、無言のまま行ってしまわれましたが、その美濃半紙大の紙に書かれてあったのが「真善美愛 至聖太乙老祖」の書でした。これを一見しましても一向に何のことかその意味がわかりませんでした。それは「至聖太乙老祖」の文字が初めて見た文字だったからです。しかし、その年の秋になって世界紅卍字会中華総会より候延爽先生(道名 素爽)が来訪された時に漸(ようや)くこの謎が明快に解けたのでしたが、当時はこの簡単な書が世界紅卍字会と大本との提携合同の予言であり、私自身も予測しなかったほどの使命がその方面で負わされていたことには全然思い至らなかったことでした。

 

関東大震災の予言

   大正12年9月1日には関東地方一帯に凄惨な大地震が起こったのですが、恰度(ちょうど)その一週間程前だったでしょうか、いつも通り教主殿の一室で『霊界物語』の浄写をしておりました時、突然尋仁師が来られて、机の後ろへ呼ばれて行きますと、手のひらに「タコマ」と書かれて「わかるか」と言われたので、「わかりません」と答えますと、「高天原と云うことで富士山のことだ。言霊別命がタコマ山の祭典の中に、エトナ山が爆発して、その惨状が手に取るように見えると『霊界物語』第三巻に示されてある。エトナは江戸のことだ。富士山から東京を見るから、目の下に見えるわけだ」と意味を手のひらに指で書き、言葉少なく関東に起こる災害について教えられて愕然としました。当時の大本では物質万能黄金万能の誤てる体主霊従的思想を立て替えて、大愛の主神の心に立ち返り、大神の赤子の誠心に立ち直さなければ、恐るべき大峠の災害を未然に防ぐことは出来ぬと、全国的に声を枯らして宣べ伝え、真の愛善精神を基礎とする新しき日本を建設し、世界の平和を打ち立てることを絶叫したものですが、世人は神がかりの言葉として一笑に付して些かも顧みませんでした。しかし、神の言葉は毛すじの横幅も狂いは無いものでした(※)。

※神の言葉は~:神の予測は「毛筋の横幅も違わない」とは、大本の開祖、出口なおのお筆先に由来する。正備註。

 

世界紅卍字会の関東震災救済使節来る

   関東大震災の悲報が中国に伝わるや、世界の災息を救済することを天職としている北京の世界紅卍字会中華総会には神命によって日本震災賑済処が設けられ、直ちに全中国の世界紅卍字会の各分会より救済資金が集められ、白米二千石と現金一万元を持って、救済の為に候素爽、馮華和、楊円誠の三氏が神命で派遣され、東京震災復興局に救済品が届けられました。団体の救済では大阪府よりも早かったと言われる程迅速に取り運ばれたのです。

  三名の救済使節が中国を出発するに際して、日本の神戸(神の戸の意)に道院開設の準備をすること。日本における新しい宗教団体の中に、道院紅卍字会とその主義目的を同じくする団体を捜し求めて提携して帰るべし。という二つの使命を持って日本に来たのですが、某宗教その他の団体を訪ねたところ、一向に要領を得なかったそうでありました。

 

候素爽と出口尋仁師との会見

  その後、11月3日に候先生は通訳をともなって、綾部の大本を訪問されたのですが、その日私は京都大学の学生クラブで開催された日本式ローマ字の会合に出席しての帰途であり、はからずも候先生と同じ列車で綾部に帰着したのでした。私がローマ字会の報告を済ませ、教主殿裏門より出ますとその時、目の前に一台の自動車が到着して、来訪者から一枚の大きな名刺を差し出されました。見ると世界紅卍字会中華総会候素爽と印刷されているので、思わず驚嘆の声をあげる程でした。実はその一週間前に『霊界物語』第五十七巻の総説歌を浄書しまして、その中に「世界紅卍字会や普化教も、残らず元津大神の仕組み玉いし御経綸云々」とありましたので「ああ、あの世界紅卍字会の方が来られたのだ。尋仁師はさぞ御喜びになられるだろう」と思い、感激に胸の高鳴るのを覚えた次第です。その日、尋仁師は大阪へ出張中でしたので、早速二大教主(道名 承仁)に名詞を持参してその旨を取次ぎいたしますと、言下に「すぐ御会いする。そして亀嘉(綾部の一等旅館)へ御案内して聖師さんに電報を打ってよ」と口早に命ぜられました。そこで早速、教主殿に候先生をご案内し、ここで初対面の挨拶があった後に旅館へ案内して休息を願いました。

  翌4日は長く旅順に住居していた池中家(妻の実家)で自慢の腕を振るって中華料理を整え、歓迎の会食をすることとなり、候先生、通訳、二代教主、それに池中守恵(妻の母)と私が御相伴で、至極和気に満ちた歓談の中に会食を終わりますと、二代教主より「候先生、旅館より私の方へ参りましょう」と手を引かんばかりに教主殿へ案内され、和服にくつろがされて、北村隆光氏(道名 尋宗)に神苑内を案内させました。候先生は静寂の炁の満ちた広大な神苑を非常に感嘆されて、誠に霊地であるとしきりに洩らしておられました。

  4日夕刻、尋仁師は大阪より帰られて教主殿で候先生と面会され、大本の救世の神業につき詳細を話され、基督教の信仰をもつ候先生のバイブル聖句の疑点をも明快に解決し、更に『霊界物語』第六巻三大教五大教の提携合体のところを指し示して「貴方の来られることは既に神界から知らされておった。道院紅卍字会こそ世界の五大宗教を統合する聖なる宗団であり、大本と手を携えて世界に平和を来たらすことは神界の御仕組である。」とし、候先生も非常に讃嘆して、大本と道院の全く不思議な神縁をよろこび、急転直下、わずか数時間にして大本と道院との提携協力が決定し、神戸道院創設の計画も直ちに具体的に進捗して、同日午後十一時にはもと大正生命保険会社社長の片岡晴弘氏が六甲山麓の芦屋の別荘を道院開設の為に提供することとなってその準備に出発され、翌五日は尋仁師、候氏に私も同伴して神戸道院の予定地の見分に出発し、その夜は青海楼で盛大な歓迎宴がはられました。

 

神戸道院の創設

  翌大正13年3月6日には候先生が再び神命によって訪日されて神戸道院の開幕典礼が行われ、一時に入修(求修)した者は三百余名もありました。昭和四年、五年(1929年、1930年)には第一次、第二次、第三次の東瀛佈道団の一行が日本を訪れて、日本各地に四百四十余所の道院紅卍字会が開設されると云う道院の歴史に光輝ある海外発展の実績を作りました。私は昭和四年末より五年春にかけて。李天真、夏頴誠両会長を案内して関東、関西、山陰、山陽および九州各地に道院の御神位を奉斎して、南は奄美大島まで参ったことも当時の追憶の一つです。

 

北京総院の乩示で大本検挙の予言

   昭和10年9月、私は華北へ特派され、10月北京の総院へ参拝した際、ある日密訓があり、数名に書壇で書を賜りました。私には  老祖より「身守力行」の大幅が賜書されましたが、その時「これは神秘で今は洩らし得ないが、重大なる神意も存するところである。十二月に至れば自ら之を知るべし。」と乩示されたのですが、当時私は余りこれを重大視していませんでした。この賜書も大して意にもとめず荷物に入れていたのですが、帰国後一週間余りで12月8日の大本検挙があり、華北から帰ったばかりの私は綾部で拘束されて投獄されたのです。入獄後12月26日から死を覚悟して断食を開始し、不正な検挙と断乎戦う意を決したのでした。1月4日獄中で静坐しておりますと、北京総院で   老祖より賜った「身守力行」の文字がありありと眼前に現れて見えて参りました。ここで静かに   老祖の示された乩示の御神意を真剣に考えさせられて、初めて神様が自分を御守護下されて特にこの四字を賜ったことを悟って、爾来断食を止めて自重し、当局の過酷な処置にも隠忍し、ひたすら阿呆になり、身体を大切にして神の御用の時を待つことにいたしました。思えばこの大試練を前もって知らされていたわけで、  老祖の訓示の偉大にして誤たぬ権威を痛感するものです。

   「真善美愛  至聖太乙老祖」の軸も華北からの荷物の中にあったために没収焼去を免れたのも奇しき神縁でした。

会報誌『東瀛道慈月刊』昭和32年3月号より

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