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終戦(敗戦)によせて

    8月15日に76年目の終戦の日を迎えます。過去の会報誌には大戦に関する記事がいくつかあり、その一つをご紹介したいと思います。

   その記事は、道院の慈善事業を担う紅卍字会が日本人孤児を救済した記録です。当時の日本人の苦労と敵国である日本人に手を差し伸べた紅卍字会の精神をお読みいただければと思います。

※文章は会報誌へ寄稿されたものです。原本には筆者名が記載されていますが、比較的最近の文章であり、個人名保護の関係から作者名は載せず、また文章中の個人名にも一部修正を加えています。

 

 

敗戦の撫順と紅卍字会

   亡夫、野島は石原莞爾将軍から撫順紅卍字会幹部藍某先生を紹介された。追々に他の同修の方々とも親交を得て、夫が人間的に非常に成長できたことは私の目にもハッキリと見えていた。折しも昭和20年8月、私たち在満同胞はどん底のみじめさを味わうところとなった。ほどなく夫も囚われの身となってシベリアに送られ、翌昭和21年1月14日、ソ連のチタ収容所で病死したとのことである。

   一方、私は暴動に遭い家を追われ、そこで長女を亡くした。一時に押し寄せた様々なショックでそのとき私は放心状態であった。満州の冬は足早やである。9月ともなれば夜はセーターが欲しくなる季節だ。その頃、撫順市内には難民(武装解除された兵士と奥地から逃げてきた人々)があふれて、収容所の満鉄クラブは超満員、在地の婦人たちはその炊き出しで精も魂も尽き果てていた。一日一食の高粱粥(※)では飢えと寒さには耐えられず、まず大人達が次々に倒れて沢山の孤児ができてしまった。その子供らが人家に押し入り、盗みをするなどの行動をとるようになった。

   9月も末に近い頃だった。撫順紅卍字会の楊会長が私を尋ねてこられ「太々(※)、難民孤児を救おうじゃないか」と仰る。地獄で仏とは正にこれ、私は放心から甦った。「帰らぬ夫を案じて待つより、失った子供のことを悲しむより、今、目の前で溺れようとしているこの孤児たちを助けることが先ではないか」と思いその感動で体が震えた。

   忘れもしない昭和20年10月1日、私は楊会長のお供をして日本人居留民会へ行き孤児院設立の申し出をした。建造物調達から夜具その他必需品、人件費など一切の費用は紅卍字会で負担する。さらに中国国民軍との折衝も同会でする、といった願ってもない好条件で話はとんとん拍子。私は翌日から居留民会の証明書を手に、リヤカーを引いて邦人宅へ衣類や食器の不用品供出方をお願いに廻ることとなった。

  翌日、撫順市最大の料亭であった「山陽楼」を使わせてもらうこととなり、楊先生ご一家と、私と私の子供二人がここに移り住んだ。落ちぶれて人の世の冷たさに泣くのは覚悟の上であったが、またその温かさに泣くこともないではなかった。やがて保母さん達の陣容も整い賑やかなこと、私がリヤカーで集めてきた品物の整理、衣類の修理などで毎晩11時、12時まではざら、三百人分を超える衣類の準備が完成した時は、思わず全員で「万歳!」と叫んだものだった。

  いよいよ11月1日、孤児たちを迎える日だ。衣類を揃え風呂を沸かして私はバリカンを手に玄関に立った。待ちに待った孤児たちは一様に痩せ細り暗い顔で、八月以来の苦悩ぶりが偲ばれるのであった。「みんな今日までよく生きていてくれたわね。さあ、早く上がりなさい。もう安心していいのよ。」こんな一言、私はどこまで言葉にできたか定かではない。滂沱と流れる涙も拭いえずに、ただバリカンを動かし続けた。毛は堅く地肌にささり、着ている物の縫目という縫目にはびっしりの虱、それからの毎日はこうした受け入れの連続であった。

   迎えた孤児は三百名を超えたが、二か月以上にわたる飢えと疲労で栄養失調や伝染病にやられて翌年引上船に乗れたのは約半分だった。

   楊会長は朝な夕な読経をなさる。すっかり明るさを取り戻した二歳から十五歳までの子供たちは、誰も強制しないのに一緒に「ツウションセンテンラオズ(至聖先天老祖)」を誦するのだった。元気な子供はまずい高粱飯でも、腹いっぱい食べられるのが何よりで穏やかに過ごしていた。楊会長を「ユアンジャン(院長)」と父親のように慕い片言の中国語で話しかけてはまとわりついていた。だが、栄養失調で寝たきりの子供が常時30名ほどいたのが哀れでならなかった。

   結氷期十二月には毎日のように雪であった。

       窓ごしに降りつむ雪の白ささえ     悲しみさそう孤児院の夕べ

       今日もまたみなし児は逝きぬ雪の日に  白き墓標は数をましつつ

  4月、雪解けの頃、何やら愁いあり気な院長より一枚の紙片を渡された。それは口こそ出さないが心中ひそかに待ち焦がれていた「引揚帰国命令書」であった。手放しで喜ぶには余りに篤い院長のお気持ちを裏切るように思えて、私はただ涙にくれるばかりであった。院長は私の肩を叩いて「10年経ったら私はきっと皆の元気な姿を見に日本へ行くよ」と言われた。しかし10年経っても20年が過ぎても日中国交回復の兆しはなかった。昭和21年5月5日私たち一行160余名は満鉄青年隊10名の若者に護衛され故国へと出発した。

   当時すでに50歳の院長はご健在であろうか。

 

    楊院長、お名前を蔭枝と申しあげる。(化煌記)

会報誌『日本卍字月刊』平成2年4月号より

 

※高粱粥:高粱はコーリャン。中国北部の背の高いモロコシ。その粥。

※太々:婦人への敬称。

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