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道院が日本に伝わるまでの経緯(林出賢次郎初代統掌の文)

    前回は、出口王仁三郎聖師側から見た道院が日本へ伝わった経緯を書かせていただきました。今回はその端緒を作った林出賢次郎初代統掌が書かれた文章をご紹介いたします。

    また、本日、2021年8月16日に林出賢次郎初代統掌(勷承真君)の誕日祭典を行いました。とても厳粛な祭典でした。ご参加くださった皆様、ありがとうございます。

 

【林出賢次郎初代統掌について】

   先ず、略歴をご紹介します。

   林出初代統掌は、1882年(明治15年)に和歌山県日高郡に生れ、東亜同文書院(上海にあった日本の大学)に学ばれる。その後に外務省に入省。モンゴルなどを実地調査し、また中国各地(南京、漢口、奉天など)の領事、満州帝国行走(皇帝溥儀の通訳)などを務められます。皇帝溥儀は関東軍と会談を何度も行い、それに常に行走として臨席していたと伝わっています。それに関する書籍も出版されています。

    道院には1923年(大正12年)から関わられ、中国および満州国内の道院の建設と運営に尽力されました。戦後は大本弾圧と共に潰えてしまった日本国内道院の復活に尽力され、統掌に扶乩で任命されました。その後、長年にわたり務められます。

  至聖先天老祖からの期待は大きく、高齢になったため職を辞することを呈報(扶乩にて神仙より解答を得ること)しても、許可されないほどでした。1970年(昭和45年)に帰道され、死後に扶乩にて「勷承真君」の果位を賜っています。

   それでは、会報より自ら書かれた道院(紅卍字会)が日本に伝わった際の経緯を転載いたします。

 

 

 卍字会渡日の回想

道慈副統監 名誉処長  林出賢次郎(道名  尋賢)

   昨夏七月中旬、世界紅卍字会香港総処に参拝し道院に於いて久方振りに中国諸先生より親しく指教を受け得たことは実に幸福であった。又帰国に当っては日本籌備所(日本総院発足前の団体)へ賜った御神体を奉載するの大任を拝し、其任を全うしたことも実に有り難いことであって身にあまる光栄を覚えた。道院、紅卍字会の修方となりてより中国の南京、北京、奉天、長春、上海等に在勤し、その他中国各地を旅行し、その地の道院に参拝し道院諸先生より種々教えを受けるようになった。この初めは実に今から三十年前のことである。思えば長い年月であるが我が身の修養の遅々として進境の見るべきもの無きは嘆かわしき次第である。 世界紅卍字会の日本に進展して来たことは元より御神意の然らしむる所であるが、而し私が南京に於いて世界紅卍字会を知ったことも世界紅卍字会が日本に進展する一つの奇縁になったことは誠に不思議なことと云わねばならぬ。今、その世界紅卍字会の日本に進展した当時のことを回想してみたいと思う。

 

   時は大正12年(西暦1923年)9月1日、日本では関東大震災のため人心が少なからず動揺した時であった。私は当時、南京駐在の日本領事として南京日本領事館に在住して居って連日接受する東京方面よりの悲惨極まる報道を見て毎日心を痛めておった際である。

  ある日、突然二人の老紳士が来訪された。一人は南京の中国弁護士会長で南京道院の会長・陶道開先生であり、他の一人は南京下関商会長で江寧道院の会長・葉能靜先生であった。両人来訪の目的として、陳べる所を聞くと、今回日本に大震災があったが世界紅卍字会北京総院では、老祖(至聖先天老祖)の神命を拝したがそれは救済米を購入して日本の災民を救えとのことであり、同時に候素爽、楊円誠、馮華和の三君を宣慰使として日本に派遣し米を携えて日本に赴き実地振災いに当らしめ、又陶道開院監をして南京に帰り米を購入せしめ総院の人を発起して銀二万元を募集し、日本震災救済の用にあてることとなり、米は既に購入したるも現在江蘇省には江蘇米の省外搬出を厳重に禁止する規則があるため、陶院監は督軍省長等に面会し救済にする事情を詳細に申し出て特別の計らいを以て米の省外搬出許可を懇請したるところ、江蘇省督軍 斉爕元、江蘇省長 韓国鈞等両長官共、何れも世界紅卍字会の会員であり、事変民救済に関する神示に基ずくものなればとて気持ち好く其の搬出を許可したくれたうえ、其米を南京駐在の日本領事に贈呈して領事の手で日本の災害地へ送り届けもらうようにせよとの希望であるので、其のため来訪した次第であるとのことであった。この話を聞いた私はその事に意外なるのに驚き且つ非常に感謝した次第である。当時中国では排日運動が全国的に猛烈に広まり対日感情の甚だ宜しからざる際であったので、此意外の厚意の表示には少なからず驚いた。その時まで、私は世界紅卍字会について何等の知識もなかったので陶、葉両先生について世界紅卍字会に関する一通りの説明を願ったところ、両先生は極めて熱心に世界紅卍字会の起源および現在の活動状況について詳細に説明せられ、なお世界紅卍字会と一体である道院において神示を受ける特殊な神法、扶乩のことについて詳細に説明されたが、これは実地にその神示の出るところを見なければ充分に納得出来ぬものなれば、何れ近日中に扶乩の実施せらるる時に私を道院へ案内してその実況を参観せしむる旨を約束せられた。

   かくして両先生より贈られた江蘇米28万斤(二千石・編注140~168t)受領の手続きを済ませ、これを日清汽船会社の倉庫にひとまず積み上ぐることとしたが、米袋には一々赤き大きな卍字を印した28万斤の米袋を高く積み上げた光景は実に壮観であって群衆は眼をそばたてたものであった。この米の輸送を日清汽船会社と郵船会社に依頼したところ、両会社ではいずれも無料で災地に輸送することを快諾してくれたのは感謝の至りであった。

   かくて陶、葉両先生と再三会見して種々教えを受けている内に陶先生から米の輸送の方は一先ず片付いたが、日本に派遣さるる三人の宣慰使の一人を北京から南京へ招致するから、面会の上、日本における行動上の注意を与えてもらいたい。又訪問する先方への紹介状も認めてもらいたいとのことであったので之を快諾した処、間もなく北京から候先生が南京へ来られた。候先生は進士出身の学者であり、又クリスチャンでもあり、極めて高雅な紳士であって、種々教えらるる所があった。そこで日本での新興宗教及心霊研究家の名士に会見したいとの希望であったので、先ず出淵外務次官に紹介し同次官を通じて霊学研究会の浅野和三郎先生に紹介して頂くこととし又私の懇意な当時大本の財務局長であった上西信助氏を紹介し、同氏を通じて出口大本教主補に紹介して貰うこととして夫々紹介状を手交しておいた。其後遠からずして陶道開,葉能靜が両先生が来訪せられ本日南京下関の江寧道院で扶乩が実施せられ、御神示の壇訓を拝することになっている居るから直ちに其場へ案内するとて自動車を用意して連れに来られた。それは実に民国12年8月11日(今から38年前西暦1923年)のことである。これが私が道院に参拝し神示の壇訓の下る実況を見た最初である。道院の修方(信者)達が粛然として侍立して居る中に沙盤(編注神示が示される砂が入った盤)をかこんで扶乩の関係者がそれぞれ所定の位置に就き、二人の纂方(神示の木筆の両端を持つ役)の木筆が動いて沙盤の上に書かれる文字を読み役の宣者が声高に読み上げると二人の清書役が毛筆を以て読み上げる声に応じ紙の上に筆記して行くのであるが、其早さに驚きながら、其内容を充分に聞き取り難きままに沙盤の上の文字を熱心に見詰めて居ると突然、陶道開先生は後ろより私の肩をつつきながら「今あなたのことが神示されている居るから神壇の前に進み礼拝するように」と注意せられたので、事情は能く判らぬままに、云わるる通り神前に跪坐して形の如く礼拝して元の位置に帰り、見守って居ると其後暫らく神示が続いて、扶乩が終わりとなり係りの人々に列坐して神前に礼拝し、一同神前を退出すると間もなく、前刻神示された多くの壇訓の中から、私に関する分の神示を抜き書きに筆写して手渡してくれた。私はそれを今日も大切に保存して居るが、之がそもそも私に賜った最初の神示である。それは老祖からの訓示であって左の通りのようなものであった。

『林使(其時は私は只の参観者であって入信者でない為未だ道名を頂いて無い。今は老祖の弟子尋賢である。道名を頂く以前は神示を頂く時林使又は林子と示された)は好(良)き夙根(編注 前世、また積んだ徳)である。今来って参観するのは深き因縁あることを証するものである。詩を給うから味わって参研せよ。

  と前置きされて次のような詩を賜った。

「雲は鷲峰に満ち水崖に満つ。

   清心俊志按排する有り。

  羨む君夙に金剛の体を具ふ。

  九九丹還自ら来る有り」

  そして其後に『汝は夙慧甚だ深し、善く自ら之を思え。本来を失う莫れ。三島円游自ら還る可し。汝本来面目好し、自ら之を修め、之を記し、之を勉めよ』

  と云うのであって、私にとっては実に記念すべき神示であった。其後陶道開院監とは益々親しくなり、道院紅卍字会に関する指導を受け、道院紅卍字会に関する参考資料を多量に提供して貰った。外務省に対する道院紅卍字会に関する私の報告書作成の上に非常に便宜を与えられた。又道院に於ける聖典『太乙北極真経』は入信者に対し特に神許を得て下附さるるものであって未だに入信せざる者には下附されないのであるが、外務省に対する報告書に添えるため是非必要なる旨を告げたる所、一応道院に於いて神示を仰ぎ、御伺いを立ててみるとて南京道院に於て林出に対し右聖典を下附して宜しきか否やを伺いたる処、特に下附するとの神示を得て聖典を入手することが出来た。之にて得たいと思った調査資料が完備し、之を外務省に送ることが出来たのである。

   一方日本に赴いた三人の宣慰使等は東京に於て東京市長等の歓迎を受け救済米の贈与を終り、楊、馮両宣慰使等は直ちに帰国し、候素爽宣慰使一人後に残り、外務省に出淵次官を訪ね、霊学研究家の浅野和三郎先生への紹介を求めた。外務省の方でも百方探してくれたようだが震災後の混雑のため浅野先生の居所判明せず。為めに東京に於ける霊学研究家との会見は不成功となりし為、候先生は綾部に上西信助氏を訪ねし所、当時大阪出張中なりし出口聖師への候氏来訪の旨を打電するや直ちに帰綾する故、候先生に待たるるように伝へよと返電あり、其翌日出口聖師は大阪より帰綾し、候先生と会見するや互いに感激の内に道院と大本が諒解なり、候先生は綾部に止り大本を研究することとし、出口聖師は北村隆光氏を北京済南方面へ派遣し道院紅卍字会を研究せしむることとし茲に道院と大本との提携が出来たのである。

  翌大正13年(1924年)の春、東瀛道慈統監出口尋仁(尋仁は出口聖師の道名)の昌導により神戸市六甲山の南麓大本信徒 片岡晴宏氏の別荘に神戸道院が開設せられ神戸駐在中国総領事同副領事及び中華商会々長の入信あり、当時神戸道院は神戸に於ける日華両国人士会合して信仰交歓の場となったのである。爾来日本各地の災害、例えば北丹地震、三陸津波、函館火災、関西風水害、台湾震災、伊豆震災等には其都度、中国世界紅卍字会より慈愛に満ちた救済活動を為し、其後九州和歌山各地の風水害にも現在香港に在る世界紅卍字会駐港弁事処より日本赤十字社を通じて救済の浄罪を寄せている。昭和4年9月第一次東瀛佈道団18名の来日あり、綾部、神戸、大阪、東京等に於て神示を下された。又昭和5年2月にも佈道団の来日あり、神戸、綾部等に於て神示あり、日本全国の大本支部分所418カ所に道院紅卍字会が設けられた。昭和10年大本に対する弾圧があって以来、世界紅卍字会の日本に於ける活動が中止するに至ったのである。

   昭和27年10月、呉奕霊(囲碁棋士 呉清源氏)、土屋化同(土屋弥廣氏)、林出尋賢等が東京に会合し紅卍字会籌備処創設の打ち合わせを行い、昭和29年1月14日、日本総院及び世界紅卍字会日本総会を設立する為めの日本総院会籌備処が東京に設立せらるるに至ったのである。爾来会員を募集し月刊を発行し日本総院会の創立に努力しているのであるが、未だ其機到らず、昨夏香港に赴き東京に於ける籌備処の現況を報告し総院会創立に対する総処諸先生の指導を仰ぎ、御神体を奉載して帰ったのであるが、総院会の創立は果たして何れの日となるか前途尚遼遠であるようにも思われ、自己の微力と修行進境の遅々たるを悲しみ光陰の迅速なるに驚き、卍会東渡の当初に於て之に関与し得たる奇縁と昨夏に御神体を奉載し得たる光栄を喜び、30数年前の過去を回想し独り無量の感慨を覚ゆるのである。

『紅卍字会月刊』昭和37年2月号より

 

【写真の紹介】

 

林出初代統掌の正装写真。モノクロの写真をAIサイトにてカラー化したもの。この正装は、至聖先天老祖より満州國の修方の中から三十六人にのみ「宗主」の位が任ぜられた際に、当時の修方より感謝とお祝いとして贈られたもの。袖に「道」の字が刺繍され、腹部あたりにも判然としないが文字が刺繍されている。胸部下から下がるものは各修宝で計11個を下げられている。位により各種修宝が授けられ、11個は最高位。

元のモノクロの写真。この正装にも、林出初代統掌が書かれた文があり、いつかご紹介いたします。

至聖先天老祖より扶乩の書画壇にて林出初代統掌が賜った書。この写真は林出家よりご提供いただきました。この書にも逸話があり、いつかご紹介したいと思います。

林出初代統掌が書画壇で賜った書。詳細は不明ですが、こちらも林出家より写真をご提供いただきました。

 

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