農暦辛丑年二月二日である3月14日(日)に、宣院掌籍 亜聖孟子の誕日祭典を行いました。
「亞聖」の「亜」は第二のことで、聖人孔子に次ぐ大賢人を意味します。またお祀りしている宣院は、求修(入会)の時にまず初めに宣誓を行う院です。その宣院を統括しているのが亞聖孟子です。それでは『聖哲略史』より、略史を転載いたします。
孟子
諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。鄒(現在の山東省城市)の人。穏やかな性格であった。早くに父を亡くし、幼いころに聖母の仉氏より三遷の教え(※)を受ける。孔子の孫・子思に長年、師事する。儒教の道を修める。五經に通じ、詩書に最も長じた。
時は戦国の混乱期にあたり、兵を用いて強を争い、互いに侵奪していた。当時、士を取(雇)り、権謀を為すことが上賢(賢い方法)とされた。孟子は先王(中国古代の聖王のこと)の大道が廃れ、紅紫亂朱(※)し、仁義は湮(沈)み没していることを憐れんだ。
ここ於いて、孔聖(孔子)が世を憂い周遊したことを慕い、儒道を以って諸侯周遊を遂げる。思濟斯民(民の救済)を行うこと、また枉尺直尋(※)は行ってはならないと説く。しかし時の君主は皆、儒教は迂闊の道だと言い、道は卒し(廃れ)、行われることはなかった。孟子は退き、諸弟子や公孫丑、萬章(※)と後世のために書七篇を著す。『史記』本伝に詳しく載る。
※三遷の教え:孟母三遷。周りの影響を孟子が受けることから、三度も家を移した有名な故事来歴。墓地の近くの家から市場の近くへ移り、さらに学校の近くへと三度住居を移した。
※紅紫亂朱:こうしらんしゅ。『論語』の言葉。正偽、聖邪が混ざり、混乱しているさま。古来、朱色は正色とされ、紅色や紫色は一段低い雑色と考えられていた。正統とされる朱色が一段低い色とされる紅、紫の色に乱されること。
※枉尺直尋:おうせきちょくじん。直訳すれば曲がった定規で真っ直ぐなものを計ることだが、大きな目的を果たすために曲がったこと、邪なことを行うことを喩えた言葉。孟子はこのような所業を行ってはならないとした。漢籍『孟子』滕文公下にある言葉。
※公孫丑、萬章:公孫丑は「こうそんちゅう」、萬章は「ばんしょう、まんしょう」。どちらも人名で孟子の弟子。漢籍『孟子』の中に「公孫丑章句」「萬章章句」と各自がまとめた孟子の言葉や問答が残る。