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謨祖(ムハンマド・マホメット)誕日祭典 (謨祖略史)

 

エルサレムにある岩のドーム(イスラム教、ユダヤ教、キリスト教にとっても聖地である)

 

   農暦辛丑年五月六日(2021年6月15日)に謨祖(ムハンマド・マホメット)誕日祭典を行います。どなたでもご参加いただけます。もしご参加を希望になる方は問い合わせフォームからご連絡ください。


【謨祖の神位】
   回教(イスラム教)教主として、至聖先天老祖および他の教主と共に正位にお祀りしています。通常、道院の神位(御神体)は、正式な神名が刻まれた銅板です。しかし、謨祖と耶祖(イエス・キリスト)だけは印で刻まれています。由来は不明ですが、その印は扶乩で降臨された際に示される印(寶)です。


【謨祖による扶乩】
   扶乩は基本的に漢文で示されます。謨祖による漢字の訓文(扶乩による文章)もあります。しかし、道院最初期の会報誌『道徳雑誌』には謨祖によるアラビア語と思われる訓文があり、さらに慈院掌籍の濟佛様が扶乩に降りられ、そのアラビア語の訓文を漢文化するという特殊な訓文が残っています。


【個人的な幸せを願う祭典】
  謨祖誕日祭典の特徴として「我を福し給へ」という主旨の定型文を全員で詠唱します。このようなことは他の祭典ではありません。これがいつから、どのような経緯で始まったかは不明ですが、数ある祭典の中でも個人の幸せを明確に祈念する祭典は、謨祖誕日祭典のみです。

 


謨祖

  イスラム教の開祖・ムハンマド(マホメット)。姓はハガル氏。アラビア半島のメッカにて生まれる。父の名はアブド。母の名はアーミナ。生まれた時、右手で目を覆い、左手で羞を遮り、地に降り、叩頭し、「これは大神を示し、我、大神の先知を為す」と言ったと伝わる。
  ハリーマ氏が乳母となった。三歳の時に子供たちで遊んでいると、突然驚き騒ぐ声が聞こえる。乳母は急いで子供たちの元に行くと、ムハンマドが天空を見上げ立っていた。問うと、雪水を湛えた金の皿を持った二人の白衣の神が、私の腹を割き臓腑を取り出し洗い、黒い血の塊を洗い流してくれた。心身がとても愉快なのを覚えると答えた。成長し、聖名を有するようになる。サルトコライ(塞爾渡古來※)の一族はこれをタブーを犯したと考え、害しようとした。そのためにムハンマドと祖父は住んでいた地を離れ、その新たな土地で祖父は亡くなった。
  その後、ムハンマドは叔父のアリー・ターリブに我が子のように育てられた。二十一歳に叔父に従い貿易に出る。後に有名となるブバカルシャ(補白克爾※)も年十八回ほど同行した。宿地に至った時に、ムハンマドは樹の下で座っていると、キリスト教徒のブハイラ(卜海喇※)が問う。「その樹の下に座る者は何者ですか?」。ブバカルシャが答える「ムハンマド」と。ブハイラは驚き「あなたはこの末世の聖人になる。この木の名はシデルであり、その昔イエス・キリストが植えた木である。イエス・キリストはこの木に座り、この木の下に座ることは何人もできない。もし坐る者がいたら、その者は末世の聖人なりと言ったと伝わる。それから600年。あなたはここに坐った。聖人の証である。」と。ブバカルシャはそれを聞き発心し、信仰に帰依した。後にムハンマドが41歳の時、聖人として称せよと天命を受ける。妻のハディーシャ、その僕人、裕福なアブーバクルの3人がそれを信じた。その後、ウスマール、ウスル、リモチャスベイ(里墨加祖杯※)がムハンマドを助け、加わった。皆、新しい教えを、新しい信徒を助けた。
  その教えは、獨一眞神を信仰し、偶像を排斥する。伝統に反するため皆、反対し、ムハンマド達を排撃した。そのためムハンマドはメディナへ避難する。しかし、沢山の人々が帰化し、ムハンマドはその信徒を自ら率い、武力を以ってその教えを広めた。遂に敵対する一族の地を征服する。アラビアの王となり、その教えをまとめた。それがクルアーン(阿蘭經。古蘭經)である。これがイスラム教となる。

※ ※マークがある人名:原文の漢字が表音当て字されており、日本で言われているものと相違がある

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