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慧聖誕日祭典(慧聖略史)

   あけましておめでとうございます。

   2021年1月1日(農歴庚子年十一月十八日)に統教副掌籍・慧聖(けいせい)の誕日祭典を行いました(祭典後に咒の奉誦、合坐も行え、ご参加いただいた方に深く感謝いたします)。

   慧聖は、日本ではあまり有名な方ではありませんが、『文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)』を著し、中国の文学史上においては偉大な業績を残した方です。

   道院の根本経典である『太乙北極真経』には、本文の上部に「慧地註」と書かれた註釈が随所に見られます。慧地とは慧聖の法名です。伝経時に扶乩に降臨され、修方が誤りやすい部分に註釈を述べられています。『太乙正経午集』においても同様で、様々な部分に註釈を書かれています。それでは冊子「聖哲略史」より慧聖の略史を転載いたします。

 

慧聖(けいせい)

  姓は劉、名は勰(キョウ)、字は彦和。六朝梁東莞(※)の人。はじめは儒教を為し、後に仏教に帰依した。法名は慧地。仏門の龍象(優れた僧侶の意)である。

  丁亥十一月十八日の夕刻に生まれる。母は文曲星(※)が部屋に入ってくる夢を見る。幼くして孤(両親を亡くし)、貧となる。十余年沙門の僧祐を頼る。とても聡明で、目下十行(一読で十行読む)であった。十歳の時に、松風水月を見て感じ涙す。そして色空聲空の理を即座に悟り、天竺因明の学(仏教因果論)に通じた。志篤くよく学び、文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)五十篇(※)を著し、古今の文章の巧拙を論じた。沈約(※)は文理を深く得られると賞賛す。

  天監(※)の時に、東宮通事の舎人(役人)となる。宗廟社稷の祭典の際に、動物を供えることを止めることを請い、武帝はそれを受け入れた。小麦で動物を作りそれに代えた。

   中條(山の名前)に用事があり、山中に入ると虎が後ろをついてくることに気づいた。始めは生死を思ったが、虎に危害を加える気持ちがないことを知る。すると導いているように虎は前行する。(虎に導かれ)山の深邃(奥深い)に至ると、虎は見えなくなった。

   すると流泉の下に道者(道教道士)が臥しているのを見る。(道者の元へ)進むが道者は何も慧聖に聞かず。道者に問うが答え無し。(慧聖は)憤し帰ろうとする。しかし、峭壁は四矗(四方にそびえ)し、壁には藤の蔓が交加し、道を探すことはできない。その道者の正体は分からず、山精木魅(山のもののけ)かもしれない。ついに進退が極まると、道者は突然に大声を出し「吁(ああ)、子(慧聖)来たるや。縁が有るなら許そう、縁が無いなら早く去れ。」と。慧聖は跪いて恭しく「私は富貴を慕う者に非ず、今のこの行にて吾が志を見ていただけるだろう。長者よ、疑うなかれ。」と。道者曰く「私は藤の杖を一本持っている。泉の下の洞の中にそれはある。子よ、吾の代わりにそれを取って来てほしい」と。

   慧聖は藤を攀(登)り、下に向かった。至ると洞の石戸が開き、中に童子がいた。童子曰く「子は師の代わりに杖を取りに来たる。杖を取って去るべし。」と。杖を持ち洞を出ると、洞門はすぐに閉じた。持ち出した杖を見ると、杖は龍に化(変)し、天に升っていった。このありさまに慧聖は目は見開き、戦慄した。道者の所に戻るとすでに姿が見えなくなっており、ただ一石がそこにあるばかりであった。

  幸いにも曲がりくねった小道を見つけ、帰路にやっとつくことができた。来た道と様子が全く違う道であり、下山し人に問うと、「此処は泰山(※)なり。」と(中條と泰山は全く場所が違う)。ここに真理の所在を悟り、心に堅く誓い出家求道する。

  後に廬山において以前の道者に会う。道者は「教えてもよかろう。私は赤松、黄石の師である軒轅(※)なり。吾が何者かを知り道を求めるならば、道を得ることを許されるだろう」と。その他の事跡は梁書本伝に詳しい。

※六朝梁東莞:六朝末期から梁の時代の人。東莞は現在の山東省の一部。

※文曲星:ぶんきょくせい。もんごくせい。占術の一つ「紫微斗数」では芸術や文化への創作力を司るとされる。

※文心雕龍(ぶんしんちょうりょう)五十篇:文学理論書で、現在にも劉勰(慧聖)の著作として伝わる。

※沈約:しんやく。南朝の政治家、著述家。『宋書』を編纂し、永明体の詩文を作った。

※天監:てんかん。中国の年号。502~519年。

※泰山:たいざん。道教の聖地で五岳の一つ。様々な伝説を持つ山。

※赤松・黄石・軒轅:赤松(赤松子)、黄石(黄石公)ともに仙人の名。軒轅は黄帝のことで道教を大成させた一人とされる。

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