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伝経合経記念日祭典(『太乙北極真経』その① 伝経について)

    庚申年十月初九日(2020年11月23日)に、伝経合経記念日祭典を行いました。

   『太乙北極真経』が伝授されて、この祭典で100周年となる記念の祭典です。ご参加くださった方々に深く感謝いたします。

   『太乙北極真経』は庚申年(1920年)に済南において伝授されました。この伝経より、道院設立へと進んでいきます。『太乙北極真経』伝経は道院の原点なのです。

   この『太乙北極真経』をこの後何回に分けて紹介していきたいと思います。今回は当会会報誌『東瀛道慈月刊』昭和32年3月号、4月号より伝経に関する部分を紹介いたします。

 

『真経』の伝経

   伝経は道院の創設される基礎であり、浜壇(※)より済壇(※)にいたる時期はすべてこの一大事因縁によって発現されたのである。その後伝経の盛典は一再に止まらないが『太乙北極真経副集』の伝授こそ初発であり、その母体とも謂うべきものであった。(※)

   伝経前には神示に依り、老祖の聖像の前に於て同修三十六人が百日間の修坐を厳粛に行った。次いで清壇の儀式、請壇の儀式、功則、壇則が示され、授経の期は庚申(1920年)旧十月初九日に開始することが判定された。(中略)訓曰「吾が道は天地に満つ、みな精玄の気なり、道書は甚だ雑にして道の浱(みぎわ※)また乱れる、知る無きを知ると為し、混然(まじりにごって区別なし)として一変す。変ずること久しくして道は鎔(と)け、時に合し時に離る。みな道の孕育して成る所あり。これ則ち吾が道の大源なり。訓言を聴く者は吉にして、功則を守る者はさかゆ(栄えるの意)。爾諸子に教ゆるに、誠有り、箴有り、銘有り、宝有り、尽く授経せる後に非れば、爾に授くる能わず」と。

   神界より未だ曾(かつ)て無き世界の大災禍を救済するために、六万年来二度目の垂教として先天の秘籙を伝えんとす。授経の開始前に於ては、極めて重要な訓文が次々に示され、万全の準備は完了して開経日と神定された1920年旧十月初九日に伝授されるはこびとなった。最初に福縁の邸宅に設けられた経壇より開始され、先ず首録及び子集が伝授せられた。以下の各集(十二支の名を冠した集)は、   聖像を下賜されて奉斎せる各弟子の邸宅の神前に壇を設けて十庚(百日間)の間に全十二巻三十六節が順次に伝経せられ、午集図説のみは最後の一壇で授けられた。侍纂(乩壇に木筆をささえもって壇に侍する役)は終始一貫して解空、福縁の二人が神命によって仕えた。毎次の壇期前には各役職を命ぜられた弟子達はみな三日間の潔斎をして壇に侍し、校正の日は深夜に至るを常としていたが、十二月二十七日に全巻の経文が伝授せられ、茲に今日の道院創設の源泉が成就したのである。

   経壇期間中は通常の問事を呈判(※)すること無く、特に重要な訓文には下記のもの有り、

老祖訓曰「能く吾が法相(神霊のすがた)を見得る弟子有りや。吾が円霊の一光を見るもまた可なるのみ。薫幕通表(神壇に香をたき黄表をささげて礼拝する)し、息心靜気(有感の心を止め、気を静める)して吾が円霊を看よ。諸子の見る所はみな光余をなす。開幕(祭典開始)の際、まさに法相を一見するのみ。」

 又曰「この経は公共普救(一般社会をあまねく救う)の書なり。壇を設ける一事は、吾れ授経をおわれる後に於ては、常時に利禄(私利と俸禄)に向かいて秘かに求めることを許さず。道を口実として世事を得れば必ず大なる災禍有り。人に進めて善に導くは、樞府(神界最高の霊府)に於て禁ぜず。天地を観察すれば、諸子は自ら明らかなるべし」と。

   当時経壇にて示された経文中に疑問とする所あり、その解釈を請示せるところ、

 老祖訓曰「諸子の中にてもし道を問いて明かに解せば、何ぞ必ずしも坐して悟らんや。悟得せる者は上乗易成(修道の段階の上乗に容易に成就すること)と為す。善く悟らざれば、これを明示すると雖(いえども)も、また書き或は説くこと能わず。即ち飛昇(悟りの境地へと入ること)すべきは全く久しく坐し、久しく悟るに在り(後略)」と。

   真経伝授の神命が下ってより、諸弟子は益々謹しんで潔斎し修坐にはげんだ。伝経の風聞が伝えられてのち求道者は次第に増加して、従来他宗教とはあまり和合しなかった回教(イスラム教)と耶蘇教(キリスト教)の信者各一人も求修して合計48名となった、この二人の加入に因って、道教、仏教、儒教、基教、回教等五大宗教の各信徒が求修して伝経は始めて完成したが、蓋して大道の合五統六(合五とは五大宗教を融合すること、統六とは五大宗教の根源である宇宙の大道を開示する道院に五大宗教を帰源し統合すること)の機がここにその基を開いたのである。

(会報誌『東瀛道慈月刊』昭和32年3月号、4月号掲載の「道院及び世界紅卍字会の概要」より)

※浜壇:ひんだん。賓縣において行われていた扶乩の壇のことの略称。

※済壇:さいだん。済南での扶乩の壇。後の済南母院へ発展する。

※その後伝経の盛典は…:『太乙北極真経』が伝経された後に、1923年『太乙正経午集』、1925・26年『大道経統』、1929年『太乙北極経髄』天集・人集、1933年『太乙北極行修真経』と経典の伝授が続くことを指す。これらの経典以外に『千仏山坐壇法言』『未集坐経解釈』など経典に準ずるもの、孫真人・華佗伝の養生に関する『青嚢秘錄』、孚聖伝の坐を解釈された『坐諦釈義』などが多種多様の内容が扶乩により書かれています。

※道の浱:かろうじて道が保たれている状況、状態の意。

※問事を呈判:問事とは個人的なことや運営に関することの質問を指し、呈判は扶乩に質問し、神仙より訓示をいただくこと。

劉福縁(授経時の纂方・福縁の邸宅に経壇が設けられた)

洪解空(劉福縁と共に授経時の纂方を務める)

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