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釈迦如来誕日祭典(釈迦如来略史)

 

釈迦如来坐像(Wikipediaより)

  農暦辛丑年四月初八日(2021年5月19日)に釈迦如来誕日祭典を行います。どなたでもご参加いただけます。ご参加いただける方はお問い合わせフォームからご連絡ください。

   釈迦如来は、仏教教主として正位に祭祀しています。また、日本の最初の道院である神戸道院(現在は存在せず)の扶乩では、釈迦如来が降臨され道詩を書かれるなど日本とも縁が深いです。それでは『聖哲略史』より略史を転載いたします。

 

釈迦如来

  釈迦如来。賢劫(※)の古代より続くクシャトリヤ(インドのカースト階級の一種で、聖職者のバラモンに次ぐ階級)の名族であり、最初の姓は瞿曇(ゴータマ)である。その六代目より釈迦姓を名乗る。釈迦は梵語(サンスクリット語)であるが、中国語に訳すと「能」を示す。また如来の名は梵語で「牟尼」であり、中国語でいえば「仁」を示し、共に「能仁(良く仁を行う)」の意味をする。

    父は浄飯王、母は摩耶夫人。二人は共に善行を行った。釈迦如来は過去からの因縁をご覧になり、この二人を自分の父母と選び、母の母胎に降臨したという。四月八日に母の右わきから生まれたと伝わり、その生まれた姿は黄金色であり、三十二の吉相を備えた。

   成長すると、様々な技芸に通じ、地理・数学・軍事を議論し、弓も射た。これらは特に学ばずとも、自然に知ったといわれる。17歳になった時、父・浄飯王は摩訶那摩(マハーナマ)の長者の娘である耶輸陀羅(ヤショーダラー)を妃とし、共に過ごさせた。釈迦と妃は行住坐臥、一緒に過ごし、静夜は禅観を修めたという。十九歳になり、心に思うことがあった。父王が苦しみに留まっているのは我(釈祖)が原因であり、國を嗣ぐ者がいないことではないかと思った。そして左手で王妃の腹を指した。すると妃は体に異変を覚え、すぐに妊娠したという。父王の悩みはこれで除かれたため、釈迦如来は深夜に王宮を逃げる。寶飾を捨て去り、鬚髪を剃り落した。

   六年の間、様々な道の緒仙と修行し、議論をし、これらのすべての道が解脱の道ではないと知る。雪山に趨(赴)き波羅樹の下に座り、「我が道、成就せずは、死ぬとも立つを要せず」と願言を発する。しかし、魔王・波旬(パーピマント)は魔女を派し誘惑した。しかし、如来は修行を終わらせ、魔を降伏させる。魔を降し、正覺を得る。

  七十四歳、ある伝では八十一歳までこの世に住し、迦葉に心印黙契(※)した。また三蔵十二部の経典は阿難尊者の結集(※)による。これが仏教の宗である。

 

賢劫:「劫」は長大な時間・時代を示す仏教用語。賢劫は現代が入る劫の期間のこと。

迦葉に心印黙契:迦葉は摩訶迦葉、大迦葉のことで、釈迦の十大弟子の一人。心印黙契はその心を継いだことを言い、拈華微笑(ねんげみしょう。説法の代わりに釈迦が花を一輪とり、弟子に花を示した。すると迦葉だけが微笑み、教えを体得したという説話)の言葉で伝わる。

結集:釈尊の死後、迦葉を中心として第一次結集が行われ、経典が編まれた。その際、常に一番、釈迦の近くにいた阿難尊者(アーナンダ)が経典編纂の中心となった。

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