農暦辛丑年三月一日(2021年4月12日)に、常儀礼と和光真人の誕日祭典を行いました。
和光真人は、宋の儒学者・周敦頤(しゅうとんい)です。周濂渓(しゅうれんけい)の号でも知られています。 道院では演道使 和光真人として統院にお祀りされています。演道使とは道を演ずる、説く、広める公使を意味します。『聖哲略史』より、その事跡をご紹介します。
和光真人
姓は周、原名は敦實。宋の英宗(皇帝の名)の諱を避け、敦頤と改名する。字は茂叔。道州営道の人。父は輔成。賀州桂嶺の令(役人)。母は鄭氏。
和光真人は幼くして孤児となる。母の兄弟の大學士・龍圖閣の鄭向家によって養われる。
景祐三年(1036年 )鄭向家は奏上し、和光真人は洪州分寧縣主簿を授かる。その時、結審されずに獄に長い間繋がれている人々があり、和光真人はこれを聞き解決した。これにより部の役人が推薦し、南安軍の司理(参謀兼司法職)となり軍に参ずる。
転運使・王逵は囚人を再審し、冤罪を受けた囚人を獄から出す役目であった。しかし、吏(役人)は判決を敢えてしなかった。和光真人は独り解決のため争ったが、進言が聞き入れられることはなかった。すぐに手紙にて、ここを去ること、追っても無駄であることを告げた。曰く「このような不正があるのに、これ以上、仕えることができようか。人を殺してしまうのに人に媚びる。私はそれはしない」。王逵は感動し悟り、囚人は死を免れた。
郴州桂陽縣の知事となり、大理寺の丞(※)に推薦される。次いで南昌縣の知事を務めた。南昌縣の人々はそれを知り喜び、「正しく寧(やす)く囚人を判じてくれる。これで冤罪は無くなる」と言った。
和光真人は嘗て得た疾(病)が一夜にしてぶり返し、寝込んだことがあった。潘興嗣(※)が和光真人の家を見舞うと、賄賂などの一切の貢ぎ物はなく、財布には銭百(小銭)しか入ってなかった。それを知り、太子の中舎が答書を送り、和光真人は合州判官事となる。次いで國子博士、通判虔州となる。
和光真人が合州に初めて赴任した時、部使者・趙清獻公(※)は赴任を知ってもその業績を知らないため、和光真人を虔守(地位が低い役職と推測される)となした。その後、趙公は和光真人の言動を熟視し、感心し、その手を取り「今より周茂叔を知るなり」と言ったと伝わる。和光真人は永州の判事に移り、次いで邵州の知事となる。熙寧(元号)元年、趙清獻公および呂正獻公(※)が登用され、この二人が和光真人を薦し、呂公著(呂正獻)により虞部郎中に推薦され、務める。
その後、和光真人は広東に転じ、判官となり、刑獄を改革するためそこに向かう。獄といっても荒崖の絶島であり、人が到達するのも困難である。瘴(毒気、毒ガス)の中を突き進む必要もある。そのような場所にて、人々の冤罪を洗い、新たな発生を防いだ。しかし、過酷な環境のために病により職を辞す。
廬山蓮花峯の下に和光真人の因家(本家)があるため、そこで生活をする。故郷営道の濂渓(小川、渓谷)に因み、濂渓と家を名付けた。それが号の由来にもなった。
趙公は蜀を再び治め、和光真人を用いることを奏上するが、それが届く前に和光真人は卒す(亡くなる)。熙寧六年六月七日、五十七歳。
和光真人が南安に官していた時、二程先生の父・珦攝通守事が和光真人を見ると、その気貌が素晴らしいため、友となった。二人の子を使わせ、和光真人の元で学ばせた。これが明道先生こと程顥(※)であり、伊川先生こと程頤(※)である。
嘉定十三年、和光真人は元公と諡号される。淳祐元年に汝南伯に封じられ、孔子廟に祭祀される。後に改めて道國公に封じられる。嘉靖(年号)になると、先儒周子と称され祀られた。
道院では、始め文壇主壇を為し、戊寅年(1938年)の春に和光真人に封じられ、道院演道使に任じられる。
※大理寺の丞:大理寺は古代中国の刑法を司る裁判所。丞は官の意味。
※潘興嗣:宋の文人墨客。現在も著書が伝わる。
※趙清獻:北宋の政治家で「鉄面御史」と言われ、改革を行う。
※呂正獻:北宋の政治家・博士。呂公著の名でも知られ、多数著作す。
※程顥・程頤:兄弟で両名とも儒学者。二人を合わせて二程、二程子と呼び名で知られる。