記事「道院が日本に伝わるまでの経緯(林出賢次郎初代統掌の文)」で載せた宗主の正装についての文章をご紹介いたします。
この文章は、1930年代大阪毎日新聞の波多江記者が林出賢次郎初代統掌をインタビューしたものです(旧かな使いのまま転載)。
『紅卍字會とは何か』より抜粋
大阪毎日新聞 昭和十二年十一月十七日~廿二日掲載 波多江種一記者稿
北支中支に皇軍奮戦の後には治安維持会が生まれる。そのメンバーには必ず紅卍字会分会会長某々といふ名が出る。避難民の救済には必ず紅卍字会員が活動したと報じてある。紅卍字会とは一体どんな団体なのだろうかといふ興味や疑念を日本人はどこかに持っている。世界紅卍字会は慈善団体ではあるが唯の慈善団体ではなく、道院に於て身を修め一種の聖者的修行を行った人々の眞に慈善のために捨身の奮斗をする慈善団体である。道院と世界紅卍字会をめぐる満支人は三百万人と称され、これが悉く有産有識階級の人々である。この満支の有力なる社會の支配階級を閑却することはできない。幸に林出書記官が道院の最高地位にあり(編註:満州国内での最高責任者)、また道院の人々の尊敬を一身に集めているから、一日詳しく道院および世界紅卍字会につき聴くことを得た。
駐満大使館の林出さんが、康徳四年(※)五月一日、道院の「授靈玄真行修一靈宗主」を授けられ、また世界紅卍字会満州国総会主席維護会長に推薦せられ、会員代表たちから道院の正装たる道服を贈られたから一度見に來給へとの勸誘を受けた。道院ならびに世界紅卍字会については、詳しい話を聞きたいと思っていた時でもあり、道院拝見かたがたお話を承わりに官邸に参上した。このとき林出さんが着て見せて下さったのが、この写眞(上部の写真)にある服装であった。
この道服はまず志那の僧侶の穿くゲートルと靴下を合わせたような靴下をはき、袖なしの長じゅ袢に似たものを着る。この袖なしの長じゅ袢は黒繻子(クロシュス)に水色の裏がついており正面には両胸に「精」「氣」と二字が縫いつけられ、腹部に「神」の一字が縫いつけられ、背面には「靈」「空」の二字が縫いつけてる。裾は波模様の縫取となっている。この上に緋絹の道服を着る。
廣袖の單衣で日本僧侶の衣よりは袖は狭いが、あの衣を想像すればよい。胸も日本服のように左衽で、両袖の中央に「道」と金文字の縫取の紋がある。
さらにこの服装の上に幅七.八寸の褐色の大授章を右肩からかける。最上部に北斗七星を象る貝ボタンをはめ、その下に上列六個、下列五個が二列に十一個の道界の功勞賞が下られてある。即ち十一個揃へば最高の功勞を樹立したことになる。これを細別すると上列上から金質一等、二等、三等、四等、五等道寶。六番目が功修寶、下列の上位は大功修寶、功寶、銅質慈寶、銀室心寶、銀質慈寶となり、一つ一つにいわれがある。その下にまた金文字の縫取で四字づつ二列に「道慈宗系、性命眞源」と書いてある。これを緋絹の細紐で締めて前で結んで垂れてある。帽子は外國の學士帽に似た堅い冠の上部は前円後方の板で、前円の部分に瓔珞(ヨウラク)のような玉飾り六條、後方に四條垂れ下がっている。大体の感じは二千年前の孔子や諸葛孔明などの繪から受ける印象である。
道服について長く書きすぎたが、道院の各代表が擧(コゾ)って、この道服を林出さんに賜ったといふことは並々ならぬ感謝の表現で、如何に林出さんが道院ならびに世界紅卍字会の人々から信頼されてゐるかを如實に物語って居ることを傳へたいからである。威圧は易いが心服を受けるのは難しい。
林出さんは駐満大使館一等書記官であり、満州国では宮内庁行走(コウソウ)といふ重要な地位にある人である。その人がまた宗教界でも重要な役割をしているといふことには、何かそこにいはく因縁がなければならぬ。
話は遠く大正十二年の大震災に遡(さかのぼ)る。當時林出さんは南京駐在領事をしていた。齋燮元督軍、韓省長、その他葉商務総会長らと交友厚く、激烈を極めた排日も南京のみは穏やかであった。その秋九月一日、東京を襲った大地震は瞬時に東京を修羅の巷(チマタ)と化した。
その時、北京の世界紅卍会中華総会は乩示(フーチによる神示)により「廿八万斤(約千石)の白米を東京に送れ」との指示を受け、米の産地である南京分會に買入方を命じた。葉商務総会長は南京の紅卍字會の有力者で白米の買入は短時間に成立した。しかし當時防穀令が布告されていた時期でこれを輸出することができない。同じく、紅卍字会員であった齋燮元督軍、韓省長らも慈善事業はやりたし、国法は破れず、窮した結果、林出さんに差上げて、林出さんの物にしてしまえへば、林出さんは日本人だから防穀令の制肘(セイチュウ)を受けないから日本への輸出も差し支へなかろうとのことに衆議一決して、廿八万斤の米を林出さんに贈った。林出さんは直ちに日清汽船の船をチャーターして日本へ送り罹災民の救助に資した。
この時、林出さんは初めて「世界紅卍字会とは何ぞや」との解釈を必要とし紅卍字会南京分会会長であって、この白米輸送に多大の貢献をした南京弁護士会長陶(トウ)道開さんに道院と紅卍字会とについて聴いたのであった。そうしたら陶さんは「それなら一度道院に來て下さい」との話なので、林出さんはある日南京下関(シャクワン)の道院に赴いた。陶さんの案内でいろいろの儀式を見、最後に開砂(扶乩が開始されること)による神示のあるところに行くと、陶さんが林出さんの腕を引いて「今あなたのことが出ていますよ」と教えるのであったが林出さんは「そんなことありますか。初めて來たばかりなのに。」と言うと「いいえ、あなたのことが出ています。礼拝なさい」といはれて仕方無しに礼拝して後で神示をきいて見ると「日本の林出なる人が來てをられるが道院とは將來非常な関係ある人だから粗末にしないように」といった意味のことが出たのであった。これはまことに荒唐無稽なことのように見えるが開砂による神示は、到底、これを書く二人の人々によって故意にこうしたことを書くことはできないもので、神意と稱(称)することができる。自來、林出さんは道院の人々と意見の交換や文献をあさっているうちに、道院は儒、佛、道、キリスト、回教等、何れから入るのも差支へないことがわかり、林出さんは自分の信ずる佛教から入ることにしたのである。
大正十四年九月から北京で関税会議が開かれ、林出さんもこれに出席することとなったので北京に乘り込むと、北京道院の人たちは非常な喜びを以って迎へた。ある日北京道院の孔(こう)分会長は「今晩はいろいろな大切な神示があるから、ぜひ出席されたい」と呼びに來たので行って見ると午前一時ごろ、いろいろな神示があってから、さらに「東亞各道院流通統掌、世界紅卍字會中華総会責任会長、尋賢これに任ず。尋賢即ち林子なり」と。林子とは、ここ數年間道院内の林出さんの通稱であった。
大正十五年から二年間ヨーロッパ駐在を命じられ、あちらに居る間に神示があって道院の東瀛副宗主(※)に任じられ道慈正字(※)を授けられた。
自來六年、昭和六年、満州事変起り満州国建國となった。
この間リットン卿が満州視察に來たとき林出さんも日本側随員として満州を歩いた。奉天に行った時、同地の道院に赴くと神示あり、「尋賢は和安の使なり」とあり、満州に平和が來ると道院の人々は一般の人々に先んじて安心した。そして其の後に林出さんを稱(タタ)へる神示がまたあった。即ち次の対聯(ついれん)である。
尋本求源道拯斯世 <本を尋ね、源道を求め、斯世を拯(救)う>
賢己化人善濟衆生 <己を賢にし、人を善く衆生を濟す>
両句の頭文字が尋賢即ち林出さんで、林出さんの行為を稱へたものであった。扶乩についてはまだまだ書くべきことが多いが、他日に稿を改めて書いて見たいと思う。ここに特筆すべきことは扶乩でいろいろの神示神訓があるが、個人の利害については一切乩示がない。また非論理的なことについて絶対に答へが無いのは面白い現象で、あくまでも大道を宣示し社會大衆を根本としている点は徹底している。
満州國建國となってから便宜上満州にある道院も「道院満州國総院」を建設し、紅卍字会も世界紅卍字会満州國総会を創設し満州の紅卍字会を統括することになった。
満州道院を建設するに當って林出さんの盡力は全満州における道院の感謝の的(マト)になっている。新京総院建設の必要が起ったとき、候補地となったのが現在の場所で、そこには佛國寺といふ荒れ寺があったのを移轉料を出し、國都建設局から買取った。この一切の面倒な手續きを林出さんが一人で引受けた。そしてこれを完全に遂行した。即ち大同大街と興仁大路の交叉点、大同公園と牡丹公園に隣接し宮内府予定地に近き新京國都の中心、最高の地点に當っている。
この地域を獲得した道院の人々は欣喜雀躍(キンキジャクヤク)、直(タダチ)に現在の三階の宏莊な道院を建築したのであった。工事廿四万円、設計は奉天の紅卍字会の責任会長をしている鄭新昌(テイシンショウ)氏の手に成っている。建築は五、六十万円或いはもっとかかるものと思はれるが信者が無料奉仕をするので僅々二十四万円でできたのであった。日数は二カ年かかっているから如何に立派なものであるか想像ができよう。道院の裏手に大雅莊といふアパートがある。会員や一般人の下宿を営み、その収入は道院の経費の一部にあてられている。竣工したのは昨年、康徳三年九月九日であった。紅卍字会が一時怪しい眼で見られていたのが、何等有害なものでないことも判明し、左の如き民政部大臣の許可書も下った。
民政部指令第四五七號
馬龍潭二命ス
世界紅卍字会満州國總會設立
許可申請ノ件
呈文ハ閲了セリ申請ノ件ハ許可ス
右知照スベシ、此二命ス
康徳四年五月十七日
民政部大臣 孫其昌
總院の建築成り、信者は安心して道に精進し、慈善事業に盡力することができるようになった。その蔭には林出さんの努力が功を奏したのはいふまでもない。
(道院発祥の略歴が続く)
※康徳四年:康徳は満州国内で使われた年号で、1934~1945年の間使用された。康徳四年は1937年。
※東瀛副宗主:東瀛は日本のこと。宗主など宗のつく役職は、一つの道院ではなく、一地域や一国、全世界などの広範囲を司る役職。東瀛副宗主は日本全体を担当する副宗主。
※道慈正字:詳細不明だが、写真の胸に下げられている修宝の類ではないかと推測する。