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道院が日本に伝わるまでの経緯③(道院の正式記録)

陶道開院監。1916年ごろの写真(中国語版Wikipediaより)。南京で領事をされていた林出賢次郎初代統掌(この時点ではまだ修方ではない)を尋ねた。この会見が道院が日本に伝わる最初のきっかけとなる。

 

 

   日本に道院が伝わった経緯を数回にわたりご紹介しています。

   出口聖師側の視点、林出賢次郎初代統掌の視点に続き、今回は道院の正式記録から転記します。この正式記録は日本に道院が伝わった詳細な記録であると同時に、悪化していっている日中間の感情を超えて様々な人々が関東大震災救済に尽力した記録です。下記より会報誌からの転載となります(なお、人により出身大学名などが不十分な形で書かれていますが、そのまま掲載いたします)。

 

 

発端

   癸亥(1923年)日本の大正12年9月1日に東京横浜をはじめ、関東一体に前古未曽有の大震災が突発した。災害状況は極めて激甚で心を傷ましめるものがあった。

  時たまたま『太乙正経午集』の伝授に際会しておったが、この悲報に接して総院(北京総院)の神示に「卍会はまさに世界の災害を救済するをもって天職と為すべし」と示され、世界紅卍字会中華総会内に日本震災賑済処を設け王道程会長(安徽省慮江出身)、安慶道院 王善荃(世界紅卍字会中華総会副会長)を派して処長とし一切の救済事務を主管せしめた。

   一方、陶道開会長を南京蕪湖に派して救済用の白米を購入せしめ、またこれを日本に輸送して難民に施し救済する施設として馮華和(馮閲模。当時、北京総院慈院附掌籍。日本帝大卒業)、候素爽(当時、済南母院道監、候延爽、東京早大卒業)、楊円誠(当時北京総院副統掌、楊承謀)3名を派し救済物資及び資金を携行して慰問せしめよとの詳細なる訓壇があった。

   この時、関東大震災の羅災者は食料欠乏の為に極めて困難しておった際であったから、紅卍字会が真っ先に白米二千石と現金二万元を日清汽船の貨物船で東京湾へ輸送して飢餓の苦境を救済する為に品川到着の当日は、日本官民多数が中華民国国旗の五色旗を打ち振って勇躍して歓迎せる感激の情は、想像に余りあるものである。当時次第に悪化しつつあった中日両国の国交の歴史より見ても誠に数十年來稀に見る程の盛大なる美挙であった。これを以て紅卍字会の徽章に対して深刻な認識を持ち、衷心より誠の敬意を抱くにいたった。

   1924年に南京道院で発行している記念雑誌癸申二周合刊合第十六項(編註:癸申という干支は無く漢文原文も不明、周は原文のまま)には当時の模様を次の如く記述している。これを参考までに載録して誤伝を訂正するの資とする。

 

(甲)日本災害の救済

  1923年日本の震災に関して、老祖は北京総院に於て訓示し、白米二千石を購入して日本へ運び救済に用うるように命じ、並びに候素爽、楊円誠、馮華和三君を宣慰使と為し、救済米と日本へ赴き実施にこれを施して救済を図らしめんとし、又陶道開院監を南京へ帰らしめて白米購入に派し、総院同人の発起に由り二万元を醵出して震災救済の用に備えた。

   白米は既に購入せるも、時たまたま産米地の江蘇省は防穀令にて白米の省外への輸出は厳重に禁止せられていた。陶道開院監(南京弁護士会長)は日本震災救済用の白米輸出困難の実情を直接斉爕元督軍(道名 光徳、南京道院名誉統掌兼道監)及び韓国均江蘇省長(道名 又希、南京道院名誉統掌)、王桂林警務長(道名 攀月)、厳財政長(道名 芬郁)、屠局長(道名 善実)及び呉県長(道名 徳化)等の軍官両長官に陳情して特別に許可を与えられんことを申請したところ、斉督軍、韓省長は事隣邦の災害の救済に関する実情であった為に特別に許可を与えた。

   これより先に葉商務会長(道名 能静)と陶道開院監は救済米輸送の事務に関して、日本の南京駐在領事 林出賢次郎氏を訪問して協議した。林出君は大本信徒であって、日常亦静坐を習い誦経していた。道院の宗旨を聞くに及んで大いに喜悦した。蓋し大本の宗旨の大根本の神を尊奉するは道院に於て、至聖先天老祖を尊奉するのと概ね同じであると為したが故である。林出君はこれによって遂に道院に求修し並びに候素爽、楊円誠、馮華和三君を大本の上西信助氏及び霊学会浅野和三郎氏、篠崎医師を通じて天理教等へ紹介した。これによって道院の宗旨は日本に宣伝され、朝野上下に於て極めて歓迎された。神戸道院は先に北京総院に於て訓示に依り特に職修(編註:役職を持つ修方)を派し、該地へ出張せしめて創設の祭典を挙行せしめんことを期したが、事実上の成立の機は実にこの震災の救済に兆(きざ)すのである。

 

   救済米の二千石は日清汽船会社によって特に無賃扱いにて、日本へ直送されたが、東京品川湾岸壁に到着の日には、東京震災復興局の人々は五色の国旗を持って勇躍して歓迎した。誠に近々数十年未だ見ざりし盛大なる美挙であった。初に救済米を購入するに当って北京総院の同人の中にはたまたま意義を唱えた者もあったが、救済米が日本に輸送された頃は罹災地の東京一帯が食糧不足であった為に、多額の救済資金を支給せられるよりはるかに救済の実をあげ得た。且中国人の居留民が之に依って救済せられた者も甚だ多数であった。即ち、老祖の先に示された訓示は時宜に適したものであったこをを知るのである。(二周合刊合抜粋終わり)

  また日本震災賑済処 王道程会長は、老祖の神命に依り極力日本の救済事業を処理したが、当時の記録を見ると実に涙ぐましい活躍ぶりであった。

   道程処長は世界紅卍字会中華総会の副会長として多忙な会務の処理に当たる共に、日本震災関係の事務を処理する為に日夜東奔西走して食事の時間も無き程であった。一面に於ては救済資金の募集をすると共に、一方政府の各機関と折衝して救済米の輸出許可を要求して、以て購入米を日本に無事輸送して救済に便ならしめんとした。また自ら南方に出張して救済米購入資金の募金に廻ったところ、寄付金の応募額が余り多くを得なかったため、誠に至急の救済の間に合わざることを恐れ、また自らも又多額の立替金を支払うに不足せる為に、自宅の土地家屋の証券を担保に入れて金を借入し、之を寄附せんとして、天津に行きたるところ、事故にて全部失ってしまった。幸いに辰鼎、喬素苞(北京総院責任統掌)、封葱一(北京総院慈院掌籍)等各会長の援助を得て漸(ようや)く借金を為して救済米を購入し、東京の震災罹災者に之を発給することが出来たのであった。

  その頃、道程処長の厳父は大病であったが一ヶ月余り殆んど病父を看病する寸暇も無かったのである。これ紅卍字会が隣邦の震災に当たり、第一回の海外救済にまつわる尊い逸話であるが、日本震災の救済は団体としては大阪府より敏速で行われた由で、紅卍字会の栄誉は大いに上がり、現在でも日本の人々がこの事に語り及ぶと無上の感激に打たれるのであるが、道程処長の献身的な活動を初めとし各地卍会員の真剣なる救済の慈功こそ神戸道院開設の発端を為すものであり、日本に総院及総会の創設される遠因ともなる。

会報誌『東瀛道慈月刊』昭和32年8月号

 

 

 

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