お知らせ

濟佛誕日祭典(濟佛略史)

   農暦辛丑年五月十六日(2021年6月25日)に濟佛誕日祭典を行います。どなたでもご参加いただけます。ご参加を希望になる方は問い合わせフォームからご連絡ください。

   濟佛様は日本では知られていませんが、中華圏では済公活仏の名で最も親しまれている神仏であり、実在した臨済宗の僧侶です。その姿はボロボロの法衣をだらしなく着て、酒を入れた瓢箪、破れた扇を持ち、首から長い数珠をかける姿で描かれます。昔から小説の主人公として書かれ、近代は時代劇ドラマにもなっています。戒律を守らない破戒僧と描かれ、神通力で弱き立場にある人を助ける物語です。

  道院では外慈(慈善事業)を司る慈院に掌籍として祭祀しています。

 

【濟佛様にはお酒を供える】

   道院では様々な神仏の誕日祭典が行われています。その際にお酒(白酒)、ワイン、清水のいずれかを儀礼に基づき供えます。基本的にお酒を供え、キリスト教の聖者にはワイン、仏教の御仏には清水を供えます。しかし、濟佛様は仏教の僧侶ではありますが、大のお酒好きとして伝わっており、誕日祭典ではお酒をお供えします。

  扶乩においても、供えられたお酒に喜ばれる訓文があります。また、扶乩に降臨されたのですが途中で酔っ払い、別の神仙に変わるという訓文があります(これに付随する扶乩をめぐる人側の話があり、いつかご紹介したいと思います)。

  それでは『聖哲略史』より、濟佛様の略史をご紹介します。

 

濟佛

  姓は李。浙江天台の人。南宋初期、父の茂春は都の節度使として仕官する。茂春は慈を以て兵を御し、仁を恵み、よく施し、長者と称された。父・茂春は國清寺長老の性空善と仲が良かった。まだ茂春には子供が無く、茂春、夫人の王氏を携え寺で祈っていた。二人が紫金の羅漢に仆地(五体投地)しているのを性空は見てこれを祝福した。すると羅漢が五色の蓮華を手にもち、その華を贈られる夢を夫人が見る。すると妊娠した。

   ある日の早朝、夫人が日を呑む夢を見ると生まれた。その日は紹興八年(1138年)五月十六日である。赤子は泣くこと甚だしかったが、彌月(生後1か月)になり、性空は赤子を見に行く。性空と相見すると笑っいてた。次第に成長し、容貌が魁偉となる。八歳で書を読み、その神智は超絶している。興が乗ると朗誦が止まらないこともあれば、ある日は終日黙坐していることもある。得る所があると天を仰いで狂笑した。これを見た人は怪しんだ。

  十二歳になると様々な書を読み漁る。禅理に通じ、祇園寺長老の道清は僧と為すことを勧めた。すると「できない」と濟佛は言う。「兄弟がおらず、父母はともに健在である。親不孝をしてどうして成仏できようか。これが不可の一。儒教の經には未だ徹していない。これで上乗の精微に参じ安ずることができようか。これが不可の二。すでに摩頂(※)の高僧はいない。またこれ(摩頂)を伝心されている尊宿(徳の高い高齢の高僧)もいない。これが不可の三」。道清は答えて「老僧は参禅し数十年。どうして無傳で終わることを慮らずにいられようか」。濟佛は「すでに師は老年となられたが、また自身のうちの霊光が安在なるを知るや(まだ安泰ですよの意)」。道清は答えることができなかった。

   後に、父母がみな亡くなり、喪に服し礼を尽くした。喪が終わると、二十二歳になっていた。叔父が結婚を勧めるが同意することはなかった。

   濟佛はある日、遠公(※)が靈隱寺(※)に在駐していることを聞く。靈隱寺に赴き、遂に髪を落とし出家する。ある日、遠公に啓発を求める。遠公は「汝の本質は太猛である。これをどうして一日やそこらで悟ることができようか。もし、すぐに求めるなら前に出よ」。濟佛は喜び、前に出る。遠公は猝(にわか)に起き、濟佛の顔を掴み、地面へ倒した。遠公は厲聲(大声)にて「汝はどこから来たのかを知らないのに、老僧へ行く道を尋ねるのか!」と。濟佛は遂に大悟する。狂喜し、起き上がるとその胸を打った(※)。狂躍し去る。遠公もまた狂喜し、大声を発した。

 

摩頂:仏が頭(頂)を撫(摩)でること、即ち仏心を伝えること。

※遠公:瞎堂慧遠(かつどうえおん)。臨済宗の高僧。

靈隱寺:れいいんじ。浙江省杭州にあり、現在も存在している。中国禅宗五山の一つ。

胸を打った:禅問答にて、全身を使い悟りの境地を示すこと。

 

書画壇(書や画を扶乩で描く)による、濟佛様の自画像

濟佛様は書画壇(書や画を扶乩で描く)によく降臨され、さまざまなものを書かれています。画はそれを賜る人へのアドバイスになっていると言われています。また、写真は白黒ですが本来はカラーです。

「仁鏡」 書画壇(書や画を扶乩で描く)による濟佛様の書。賜ったのは王春山。後の刼化真人(九江殉慈先烈のお一人)です。

 

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