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元旦の常儀礼  項先師橐誕日祭典(項先師橐略史)&聖徳太子誕日祭典

  2021年2月12日(金)は農歴の元旦にあたり、元旦の常儀礼と項先師橐誕日、聖徳太子の誕日祭典を行いました。平日にも関わらず、多数の修方がご参加くださり、深く感謝いたします。

 

【除夕と元旦】

   道院の新年は農歴の正月一日を以って新年を迎えます。いわゆる、日本の旧正月や中国語圏の春節と同じく、2月12日に辛丑(かのとうし)年を迎えました。

   訓文(扶乩による文章)によると、単純に中国で発生したため旧正月を正式な正月としているということではなく、各神仙は前日の除夜(除夕)と元旦の祭典を大切にされていることがわかります。一つだけ訓文を取り上げてみましょう。

 

乙巳年十二月二十三日の処科(香港道院で行われていた扶乩の壇)における黙真人の訓

(全体の訓があった後に)坐誦せる各方は均しく身心霊事四功、炁性命霊の四候を指して賜う(※)。各地もこれと同じ。明年(1966年)正月元旦に礼拝を行いて奨及び宝果(※)を拝領せよ。

(中略)

除夕(除夜のこと)には各方は亥子交(午後十時四十五分ごろから十一時ごろ)に恭しく鎮化寶(※)を拝誦せ よ。拝誦前に自由に合坐及び誦咒するを可とす。各々そろ宜しきを以てすべし。

※身心霊事四功、炁性命霊の四候を指して賜う:その年の各修方の度合いにより、至聖先天老祖より各霊・各宝、各奨などを無形に拝領することを指す。

※宝果:福果ともいい、神前に供えた果物のこと。

※鎮化寶:統宝(とんぱお)という古代の漢字のような文様の周囲に、先天の八卦、後天の八卦が配された香木製の宝器。大きくは天災戦災を、小さくは個人の病気や災刼を消すことを目的として、偈文を一定の方式に基づいて誦す。申請すれば各個人で拝領することができ、自宅などでも誦することが許されている。

  昔は除夕に鎮化寶を誦し、その後に元旦になってすぐの午後十一時後に常儀礼を行っていたようです(東洋思想では午後十一時に日付が切り替わる)。その際に、上記訓文のように前年の修道に基づき、至聖先天老祖より無形の霊や奨が与えられる訓文が散見されます。

 

【誕日祭典】

  また、同日に項先師橐(たく)と聖徳太子の誕日祭典を行いました。聖徳太子は宣院に副掌籍兼佈道使者としてお祀りしています。項先師橐は孔子の師匠とされる伝説的な童子で、儒教の教主として正位にお祀りしています。冊子『聖哲略史』より項先師橐の略史を転載いたします。

 

項先師橐(たく)

 

  名は橐(たく)。七歳にして孔子の師である。その事象は國策、史記、論衡など諸書に見られる。孔子はこの童子の言を取り上げ、童子の言を法や戒としたとされる。高誘(こうゆう)による淮南子の註釈書では「項橐七歳、困窮していた時代の孔子はその師とした。小児の言を聞き、自らの矜を悟った。」とある。鮑彪(ほうひゅう)が註釈した戦国策は高誘の説を本にしており、この書でも項橐の記載があり、列子に載る日の出を孔子に問う童子(※)であるという説が載る。孟康(もうこう)、董仲舒(とうちゅうじ)の伝えるところによれば孔子に問うた達巷黨人(※)だと言うが、ただしこの説は何を根拠とするか不明である。

  本院会(道院)では儒教の主として奉斎している。また、これに疑問がある者があり、その者に太原の芝山人(※)が証拠を示したことがある。その人の説では、項先師は伏儀(※)の後身であり、伏儀の書いた卦は中華文明の源である。故に儒教の祖とする。これら書籍の中に項先師の生を見ることができる。

 

※孔子に問う童子:列子に、童子が日の出と日没のどちらの太陽が大きいかを孔子に問い、孔子の智慧を計った逸話が載る。

※達巷黨人:論語に達巷黨(地名)の人が「孔子は何でも知っていて、どこにも名声を得ていない」と孔子に言い、孔子が「何になろうか、御者になろうか、射者になろうか、私は御者になろう」と答えたという説話が載る。

※太原の芝山人:詳細不明。

※伏儀:ふくぎ。ふっぎ。伝説上の古代中国の聖人・皇帝。

 

書画壇による濟佛筆 丑と笛を吹く少年 「無腔信口吹 靜濟 顛僧(濟佛様の自称)」

 

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