お知らせ

修方の死後の様子

   もうすぐお盆です。地域によってはすでにご先祖様をお迎えしている場所もあると思います。

   道院の先祖供養を先霊冥修と言います(冥府での修行の成就を願うことからきている言葉です)。また、先霊冥修のために農歴七月十四、十五、十六日に『太乙北極真経』を誦経する道院や農歴七月に入ってから金剛經を毎日誦経する道院もあります。

   道院では、どのような死生観を持ているのかを祀霊室公祭の記事で少しご紹介しました。今回は道院の修方が亡くなり、その後、その修方が扶乩に降臨された話をご紹介します。

下記より昔の会報誌の抜粋となります。

  臨楡道院の統筦掌籍(※)のである楡福先生は原名を書麟と云い、字を春浦と称し、丙寅(1926年)十二月二十日に齢51歳で帰道しました。生前の功行が大きかったので、老祖様より覚悟使者に封ぜられました。そして、帰道後に壇に臨んで、自らその状況を説明したのであります。

濟佛

  福子(楡福)は生前、性質は拙劣であり、智慧が乏しく、道理にも余り通じていなかったが、しかし心根は誠に満ちていた。深い学識はなく、商売の経営は無策で且つ拙劣だったので、半生は清貧の中に過ごした。少年の頃より仏様を礼拝し斎(精進料理)を食して、体性を傷めるようなことには心を動かされなかった。一方、臨楡道院が発起された時から設立に努力したのである。僅かな力ではあったが、心を尽くし力を尽くして能く困難な道院設立を成し遂げたのである。故に老祖様は吾が壇に臨むことをお許しになったので、(福子の)生前と歿後の心の状態を説き明かしているのである。

  福子は先ずその誠を表して、後に修めることに励んだのである。諸修方は道を修めるを以って自分の任務となせば、まさに淪落(地獄)に墜ちるのを免れることができる。覚りの彼岸に登ることは難しいといわれているが、証果を得ることができるのである。このような次第であるから、各々は慎んで怠らず修行せねばならない。

  吾(濟佛様)の後、福子が臨むから、酒を取り除き、福子が壇に臨み易きよう、願言の祈詞を唱え、もってその靈を助けるように、各々記して遵(したが)えよ。吾は坐院において静かに休息する。

   以下は楡福の霊が自ら扶乩に降りて、説いたものである。

  吾は覚悟使者楡福である。諸同修よ、福は躬(体)において健康であり安泰であり、万事は意の侭である。諸同修は礼拝を行ってくれるが吾は実にその処遇に値しない。吾は濟佛様と連れ立って来て、幸いに今日皆さまと一見することが出来たのは、早くから苦海に堕落しなかったからである。諸同修は私が霊界で楽しんでいると云い、あるいは成仏できないで苦しんでいるとしたり、またある人は死んでしまったら霊魂はないのだなどと、吾の死後を論じている。

   吾が死後は、猶楽しみあり、また苦しみもあって、生前に似ている。生前は沢山の煩悩があったが、死後においては結構な好い所ばかりである。

  道院の諸長等は、どのようにお感じになるか分からないが、吾の霊は未だ充分でなく、ただその大概の部分が宜しかったといえよう。吾は諸同修に告げるが、皆さんが信ずるか否定するか知らぬが、先ず吾が生前の大凡(おおよそ)のことを述べる。

   吾は少年時代より僅かに学び、青年になって商業を営んだ。元来、交友する人々も少なく、心は愚かで、交際や話術は拙く、半生の間を余分に設けることもなく過ごした。僅かの主収入で生活したが、大層節約して瓜を割る如く物品や金銭などを人に施した。

  吾の死後、家に残した老母は好い人に看護せられていても、咳をすれば吾の如く充分に介抱出来ない。吾は没して栄顕に恵まれたが、これを見れば冥土霊界で涙が流れるのである。咳をするのを見てさえ、この有様だから他は推して話すまでもない。

   再び話を返して楽境の様子を説けば、諸同修はたちまち歓喜するであろう。

   吾が没した夜、道院に来てみると、諸同修は相迎えて呉れた。吾は慈果統掌(※)の修行が高いのを識ったが、他の者には未だ清楚なるを看ることがなかった。戻って東門の方にある室に降り、度々院中で諸同修を見ても、行き会っても急いで避けて行くのである。実に霊が円ろやかに聚(集)っていないので、吾を見ることが出来ないでいる。然る後、諸同修が吾のために三日間誦経をしてくれたのである。同時に濟佛様が吾が霊に坐する事をお命じになった。これは霊が稍(やや)明るいが、しかし経は未だ能く完全に誦経されていないからである。

   ところで濟佛様が度々、懇ろに手を引いて妙山に赴こうとしたが、まだよく俯して従うことが出来ない。そこで又吾に命じて、夜静かに人が寝ている時、老祖様の宝前で聖号を千回奉誦した。さらに午前六時ごろになって二班の人たちが真経を誦するのに逢った。吾が霊も始めて聚(集)まり、前に随うことが出来るようになったので濟佛様のところに赴いて礼拝を済ました。

   師霊(濟佛様)は千仏山(※)において三日間静養してから、始めて吾を伴って妙山に赴き老祖様に謁礼したのである。

   師霊(濟佛様)と初めて妙山の山麓に至ったが、清涼なる風が面を撲るように強く吹きつけると、その勢いで吹き倒れそうになり、支えることができないのである。故に濟佛様の祐護があり、万事支えて下さるので、はじめて山の腰まで登ることを得た。

   妙山は寒界、暖界、温界、霊光界があり、寒界の寒さは朔風(北風)が骨を侵すように寒く、暖界の暖かさは炎暑で蒸されるようである。吾の霊も幾何(いくばく)かその寒さのために凝滞し、またその暖かさのために溶化しそうになった。ことさら目を見張って見なくても、恍恍惚惚(うっとりとする)たる状態であり、尚よく吾が霊は円く聚っていた。また濟佛様の大きな力のお蔭で、中途に挫けずに目的を達することができたのである。

  温界に至っては、世間と大して異なった処はないのである。然る後に、はじめて霊光界に至った。梟鳥(フクロウ)の如くまぶしくて目が見えない中に、すでに霊光界に至って茫然として眼を見張った。即ち高廈(大きい家)が数掾、巍巍として高くそびえており、高楼が階層をなしており、その中の一つは宮殿さながらであった。濟佛様に伺ったところ、これが青玄宮(至聖先天老祖宮殿)であるとのことであった。吾は乃ち恍然として大悟し、やっと到ったことを喜んだのである。さらに濟佛様に従って階段を昇り、遥か宝前に叩頭拝礼したのである。

  濟佛様は老祖様を仰ぎ視ることはなかった。御顔は似ている様であり、似ていない様でもある(※)。叩頭して拝してから、恭しく階下に侍立していたところ、知らない中に霊光数倍を加え賜った。目も明かになり、霊も一段と明るくなったのである。

   奇妙な花や珍しい異なった草や、野獣や山禽がおり、樹木は盛んに茂っている所があり、また枯れて葉の凋落するところもあり、真の天然その侭である。お蔭で良い経験ができた。

  ここにおいてまた濟佛様に随って道院に戻り、特に老祖様の宏恩を蒙った次第を、吾が壇に臨み説明することになったのである。諸同修よ、一悟してまさに道を修めんとすることが大事なことを知られよ。内には修坐と誦経をもって、外には慈善の行為をもって、もし能く堅固に身を持するに到れば、上乗(悟臨の境地)の上を得ることも難しくないのである。

  吾は生前には未だ坐の修行に欠けるところがあった。坐は即ち如何という問題について迷って昏く、よく解明できなかった。これは第一の大病であった。目は患い、口は拙く、毎誦経の時には必ず多く漏れるところがあった。これは第二の病であった。心は粗く少しは練ったが、自分の性質の赴くままに任せることが多かった。これが第三の病である。心気は鈍くうごめき、出会った問題は自ら解明することが出来なかった。これが第四の病である。この四つの病が、五臓に積もって、すなわち命を侵す病気となったのである、諸同修は吾の如くこの四病に犯されることなく、願わくば寿命を増して、長生きするべきである。

  望むらくは、諸同修よ、堅く修めて、将来の福寿は必ず天地と同じく永からんことを。吾はこれにて帰る。

会報誌会報誌『日本卍字月刊』昭和40年10月号より

※臨楡道院:臨楡は現在の河北省秦皇島市

※統筦統掌:統筦は統院の役職。掌籍がつく場合はその役職の責任者。

※慈果統掌:慈果は道名。この方の詳細は不明だが、統掌とは統院の責任者であり、その道院の全般の統括・運営を担う。

※千仏山:済南母院がある済南城外にある山で多数の磨崖仏が刻まれたことから千仏山と言われる。現在も観光地として栄える。道院にとって重要な山で、最初の聖像撮影、『太乙正経午集』の聖像撮影が行われた地である。

※御顔は似ている~:どの道院でも至聖先天老祖と五大教主を祭祀する正位に、老祖様のお姿が映る聖像を祭祀している。その聖像と似ているか否かを指す。

 

(祀霊室写真) 右の祭壇には統霊尊者・渡霊尊者・護霊尊者の三靈尊者を祭祀する。 左の祭壇には祀勲・祀霊の祭壇を兼ねて祭祀している。祀勲は扶乩で錫(爵位)を賜った帰道(死亡)された修方を祀る。 祀霊には入祀希望のあった修方の先祖親族、また所縁の人々を祀る。

 

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