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孫真人誕日祭典(孫真人略史)

孫真人(孫思邈) Wikipediaより

   2021年2月14日(農暦辛丑年正月三日)に、慈院副掌籍・孫真人誕日祭典を行いました。

    孫真人は医療法、漢方をまとめた実在の人物です。道教においても医神、薬神として祭祀されています。『聖哲略史』より、孫真人の略史を転載いたします。

 

孫真人

  諱は思邈(しばく)。華原(現:陝西省銅川市耀州区)の人。七歳で千言を憶え誦した。獨孤信(※)はこれを見て曰く「聖童なり。その器は大難に用するを為す(その器は大難にこそ力を発揮するの意)」と。長(成長)じ、老荘を談ずるのを好んだ。太白山に隠棲し、道を学ぶ。気を練り、神を養い、度世の術(世を救う術)を求め、天文、医薬を洞悉靡遺(伝えられていることを全てを知る)する。また陰徳を行うことを好んだ。

  ある日、牧童に傷つけられ血を流す小蛇を見つける。真人は衣を脱ぎ、小蛇を救った。その後、十日ほど外出した時のこと、白衣の一少年が下馬し孫真人に拝謝し、「我が弟を道者(孫真人)が蒙し(傷を覆い)、救われました。家に招待いたします。我が馬を使い、皆で早く行きましょう」と述べる。そして城郭につくと、王の住まいの如くであった。絳(深紅)衣を着た人が出迎え、謝して曰く「あなたの手当てに深く感謝します。故に息子を迎えに行かせました」と。一人の青衣の子供を指して曰く「あなたが救った子です。牧にて傷を作り、それにより衣を脱ぐことで、贖い救われ、不死を得るのです」と述べ、青い衣の子に拝謝をさせた。真人は初めて今回のことを悟った。周りを窺うと、涇陽の水府(水神や龍神の宮殿)にいることを知り、三日居した。絳衣の王が軽綃(絹)、金珠を真人に送るが受け取ることはなかった。乃ちその子に命じ、龍宮の奇方(奇なる漢方)三十首を送り、「是を以て、道者(孫真人)は世と人を救うことができる」と。真人は帰り、たびたびこれを試すと皆効があった。のちに著作「千金方(※)」に編入した。

  隨の文帝は幾度も孫真人を徴(士官を命じる)したが就かず。唐の太宗の時、初めて京師(帝都)へ詣でた。永徽(※)三年、壽を経て100歳を超えた。ある日、沐浴し、衣冠し端座する。子孫の伝では「吾、将に無何有の郷に遊ぶ(※)」と言い、俄かに気を失い、亡くなったという。その顔色は数か月も生きているようであった。入棺の時には体は消えてしまっており、ただ空衣のみ入棺したという。

  後に明皇(太宗のことと思われる)が蜀を行幸すると、夢に孫真人が出て武都の雄黄(漢方薬)を欲した。すぐに命じ、中使に十斤を賚(賜)い、峨眉山の頂上へ送った。そこには茶幅巾を被った人がおり、鬚も眉も白い。その人が円い大岩を指し、ここに薬を置くよう指示する。大岩を見ると、感謝の文が岩に刻まれていた。使者は岩に刻まれた大書百余字を視て、これを記録する。写した途端、大岩の文字は白い煙と共に消えてしまい、もう見ることができなった。

 

※獨孤信:503-557年。西魏の八柱国と称された宰相の一人。大司馬。

※千金方:現在も孫思邈著として「千金要方」「千金翼方」として伝わる医学書。

※永徽:えいき。唐の年号。650~655年。

※無何有の郷に遊ぶ:「無何有の郷」は荘子の中にある言葉で何もない広い世界、理想郷。

 

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