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修道とは⑥「傳經要旨」──『經坐輯要』より

   前回の「修道とは⑤」より、『太乙北極真経』『太乙正経午集』と修道との関係を『經坐輯要』より抜粋してお知らせしています。

   求修(入門)し、100日の修坐を経て『真経』を拝領します。扶乩が盛んなころは、この『真経』の拝領にも神仙に可否を伺い、許可を受けて拝領が許されるものでした。誰が新たに拝領を許可されたのかも全道院に告知され、『真経』を拝領して初めて修道の入口に立ったとされます。

  現在、告知こそ無くなりましたが、『真経』を拝領してこそ、修道が始まることは現在も変わりません。

  下記より、『經坐輯要』の「傳經要旨」の転載となります。

 

 

傳經要旨

 

老祖訓

「經を以て道を傳え、また以て救世したが、石門の傳(※)は已(すでに)失われて久しい。吾、いま降世したことも無駄ではない。特に世の道、人心は既に急速に衰退している。もし經を世に授けなければ、色空の理に使われ、道徳は微(かすかになること)を人人覚悟せよ。しなければ苦海の津(渡し場)に迷い、塵寰(低俗な俗世)が偏満する。」

※石門の傳:伝経は六万年前に一度、石門(地名)で行われたことを指す。

 

孚聖訓

「道はどこにあるか。理に於いて在り。經はどこから来るか。 老祖より来たり。老祖は無始無名、無傳無經、これ炁なり、霊なり。天地を生み、人、物を化(成)した大胞なり。放てば六合(宇宙)に満ち、巻けば密(極小)に蔵する。形無く天に在し、而して有形を生ず。形有りて地に在し、而して無形に育す。人においては生死の変化、以て始を為し、終を為すなり。これを称して道と炁、經と霊と言う。

  日々、天地の道は遠く過ぎ去り、炁も愈々(ますます)と離れ、人道もまたそれにより日々去る。これにより萬殊(よろずのもの)は散じ、収しようとしても帰すこと無く、乱離生じ、刼燹(災害と戦災)は重くなる。  老祖が道を伝えなければ、道を得ることも伝えることもできず、經も伝えなければ、經を得ることも伝えることもできず、人類は自ずから滅絶を成すことを忍べず。」

また曰く

「經が伝える所は何か、著す所はなにか。空のみ、霊のみ、炁のみ、神のみ、光のみ。是を以て符を為し、而して符には靈あり。之を以て咒を為し、而して咒は験し、その靈、その験、誠これ感ずるところなり。精これ格する(※)ところなり。この經のある所は即天地のあるところ、この經のある所は即  老祖がいますところ、經のある所は即元気(がんき)のあるところ、即炁霊のあるところ、即神光のあるところである。故に人の誠なる一念は通じないことは無く、応がないことは無いと格(さと)る。人の神と天地と老祖の神と往還しない時は常に無し。道は經にあり、而して我が經を得ることは道を得ることである。經において道を得て、誠を以て經を悟り、不通の所無く、不明の所無し。我の心、その上下圓虚は鏡となる。各方能く經を 老祖のいますところと為し、霊を照らすところに不吉不祥の時無し、不利不通に往する無し、何を刼數を畏れるに足るかな。」

格する;究極に至ること。

 

 

濟佛訓

「各方はすでに經を領した。經を貴と為すことを須らく知れ。また一誠不二であれ。もし經を性命の護符となせば、而して經は一切の水火刀兵の禍、患を化し(消し)、免じることができる。誠を精し(磨き)至るところ、金石は開く。各方、勉め修を進めよ。内外両功(坐などの内修。慈善などの外修)を修めよ。偏廢(※)をしてはならない。」

※偏廢:内修だけを重んじたり、慈善事業のみをして内修をしないなどの偏り。

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