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修道とは②「道の体用」──『經坐輯要』より

    初修の方向けの冊子『經坐輯要』より、修道について解説しています。初修の方はもちろん、まだ求修(入門)されていない方にも道院の参考になると思います。

   前回は「道とは何か」で「道」そのものの訓文をご紹介しました。今回は「道の體用」です。體用(体用)とは本体とその作用のことで、東洋思想ではよく説かれる項目です。道が具象性を持つと、何に現われるのかが示されています。

  また、後半には「修道の重要性」として至聖先天老祖の訓文が示されています。

  下記より  冊子『經坐輯要』の抜粋となります。

 

【道の體用(本体と作用) 】

老祖訓

「道の体は炁の正なり。道の用は即ち徳、功、能なり。」

また曰く

「世間の所有は道の體に非ざるものはない。道の用に非ざるものはない。道に非ざる處(処)は無し。無處(処)は道に非ず。ただ人が能く悟るか悟らないかによるだけである。」 

          

荘仙周(※)曰く

「吾がいうところの道とは、乃ち正道であり、また大道である。だから(この道は)有體有用の道である。體はどこにあるか? それは人心の生理であり、天地の生気であり、儒書が言う無極から生まれた太極であり、未顕の真宰なり()。老祖が自ら降化され、炁の原理を明らかにされ、道の大道を明らかにされた。」

※荘仙周:詳細は不明ですが、扶乩では様々な神仙が壇に降臨されており、その中のお一人。

 ※未顕の真宰:原文は「然猶未顕掲真宰也」とあり、「いまだ全てが顕(あらわ)れていない真宰」(真なる主宰)のこと。

 

慧聖

「天地の萬物は皆、一炁が化するところである。寂然不動は道の體であり、感は遂通するは道の用なり()。そもそも道は天地を包み、見ることはできない。しかし、陰陽風雨晦(暗)明はみな道が化したところである。また道は人心にあり、それも見ることはできない。しかし、孝弟忠信礼義廉恥、これらは皆道の功徳なり。」

※寂然不動 感而遂通人の本体である心は、常に静かで動かないものであると共に、常にまた感じて通じるものであって、動静を兼ねるが、まだ外物に応じないからといって、先にあるのでもなければ、すでに応じたからといって、後になるものでもない。(伝習録:中国の明代に王陽明が起こした陽明学の入門書)

 

【修道の重要性】

老祖曰く

「人は萬物の霊を為す。人の霊は萬物の上に位置し、萬萬と止まず()。萬物はまさに道を得ようとし、而して道を成じ、霊、神は天に通ず。人の霊は稍(やや)修養するだけで、その本體に回帰し、神聖仙佛となる。人はどうして自ら修しないのだろうか。」

※萬萬は止まず:全ての物、動植物の上に位置することを強調する言葉

また曰く

「修道の進退は、すべて己の操()にある。権有り真持す。而して、(修道を)進ませても退かせる因は外からの誘惑以外にあるだろうか。」

※操:意志を曲げずに、誘惑や困難を退け、貫くこと。

 

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