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『太乙北極真経』その➁ 授印釈義

    先日の庚申年十月初九日(2020年11月23日)に『太乙北極真経』伝経から100周年を迎えました。それを記念し、数回に分けて『太乙北極真経』をご紹介していきます。

 

【孚聖訓 授印釈義】

  『太乙北極真経』を開くと、一番最初に朱色で描かれた崩した漢字のようなものと「鎮経」の二文字が書かれたページが目に入ります。これを「玄印」といい、単なるシンボルマークではありません。

   この玄印について統院掌籍の孚聖様が解説された訓文(扶乩による文)をご紹介いたします。老祖様が『太乙北極真経』を降ろされた理由も理解いただけると思います。

「授印釈義

  篇の首(はじめ)の硃(朱)い字は何であろうか。乃ち天篆(天の書体)である。その意味するところは何であろうか。乃ち

  老祖の玄心である。亦即ち心印(言語によらないで直に心を以て印するもの)でもある。その文「鎮経」は何であろうか、これを鎮道弭刼経と謂うのである。これは、老祖が汝ら諸子の不明を恐れて、特に訳書して鎮経の二字にしたのは、蓋しこれを略称したのであり、その実は鎮道弭刼経である。

   老祖は末刼が極めて重く、多くの衆生の元霊が将に尽きんとし、道元真玄(※)が顕われず、徳の仁義が日に日に晦(くら)くなっていくのを憫(あわ)れまれたので、特に二千五百甲子(十五万年)の間未だ洩らしたことのない道旨、五千紀の間未だ宣(つ)げたことのない秘蘊(秘蔵)を伝え、以て鎮道弭刼の用となし、また、これをもって未来上元の新運の前兆とするのであり、而して玄玄心印(玄玄と以心伝心で感応する)して、さらに邪魔を駆(はら)って道心を鎮めるのである。

  経に勅(みことのり、上から下に命じる辞)があるが如く、道に宗(もと)がある如く、天篆(天の書体)は即ち勅であり即ち宗(もと)である。諸神が護衛して、諸邪が遠く離れるのである。

   老祖が親(した)しく臨んでいるが如く、玄の光が常に注いでいるが如く、すべて読経するもの、参研するもの、刼患を弭(み)するもの、福寿を増そうとするものは、経を啓(ひら)く時においては、必ずその心を正し、その意を誠にして、惟(ただ)清く惟浄く、一志神を凝ら、上像に黙し玄印に注げば(※)、即ち

  老祖は自ら必ず感応して光に接し、合して一になる。誦するものは人といえども、又

  老祖の光が現われて説法するが如く、それと異なることはないのである。

  仏は所謂(いわゆる)心心相印(※)し、道は所謂感応して斯れに通じ、儒は所謂心とこの理を同じくし、回(イスラム教)は所謂主に朝(面)し、耶(キリスト教)は所謂主に祈るのである。

  おもうに皆人の心を以て、上玄心に接するのである。故に修者が経の首(はじめ)の玄印を以て時々(つね)に像に黙すれば、自ら能く玄心と印通して、諸々の邪魔と祟(たた)りは遠く離れ、道を悟らずして悟り、通ぜずして通じ、明らかならずして明らかになり、得られずして得られるであろう。修方諸子がめいめいが謹しんで悟り遵奉すれば、則ち感応の効果は実に不思議なものがあるのである。

   試みに思えば儒(儒教)は学を授け、道(道教)は窔(きょう※)を授け、釈(釈迦)は記(経)を授け、耶は洗(洗礼)を授け、回は摩(※)を授けた。なんと重要であろうか。而るに

  老祖は印を授けたが、これは更に重要な中でもとりわけ重要であり、それは万年にも逢い難い機遇(機会)によるものである。それめいめいが珍重してこれを見よ、好(よ)く自ら精誠潜修して、以て老祖が印を授けられた至意に背かないように期すればよいのである。」

会報誌「日本卍字月刊 平成2年12月号」 原文「処科訓錄 巻六」に掲載

※道元真玄:道元は道の源、真は真実、玄は人智では窺い知れない深奥。

※上像に黙し玄印に注げば:誦経の前に、「鎮経黙視」の掛け声とともに、「鎮経」が印された玄印を数分間静かにみつめ、それから誦経をはじめる。この「鎮経黙視」のことを指す。参経(経を研究すること)の際も行うと良いとされる。

※心心相印:真理、法は文字などに依らず、心から心へと伝えられること。

※窔:文により意味が変わってくるが、ここでは祖窔(額の中心部分)や胸部の中丹田、下丹田、各気脈などを総じて窔と指していると推測する。

※摩:この摩が何を指すか不明。

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