昌佐神
しょうさしん
諸葛亮孔明のこと。神号は昌佐神です
解説
昌佐神とは、三国志の蜀軍師 諸葛亮孔明です。
在世中、また帰道(亡くなり、道へ還ること)ののちの働きが非常に大きかったため、天界の枢府から「昌佐神」の神号が贈らました。
諸葛孔明の生涯
姓は諸葛、名は亮、字は孔明。後漢の瑯邪郡(現在の山東省南部)の人です。
早くに両親を亡くして一人となり、叔父の諸葛玄を頼って暮らします。
やがて戦乱を避けて荊州(現在の湖北・湖南あたり)へ移りますが、その叔父も亡くなってしまいます。少年期の孔明は、身寄りを次々と失いながら育ったのでした。
南陽で耕す日々
身を寄せる先を失った孔明は、南陽の地で自ら田を耕して暮らします。
のちに彼自身が「出師表」のなかで、自分はもともと布衣(庶民)であり、南陽で畑を耕していた、と書き残している、あの日々です。
このとき孔明は聞達を求めませんでした。毎日みずから楽器を弾いて過ごす、静かな生活だったと伝えられます。
とはいえ、その学識と見識は自然と人の知るところとなり、世に隠れた大器として噂されるようになります。「臥龍」伏せて時を待つ龍という異名は、この時期のものです。
三顧の礼
その噂を聞きつけたのが、当時まだ確かな地盤を持たなかった劉備玄徳(道院で用いられる呼び方では照烈帝です)
劉備はみずから三度、孔明の草廬を訪ねました。世に言う「三顧の礼」です。
三度目にしてついに孔明は帯を解いて誠意に応え、二人は互いに厚い約束を交わします。名を求めなかった一人の農夫が、天下の趨勢に踏み出した瞬間でした。
天下三分之計
このとき孔明が示したのが、有名な天下三分之計です。
北の曹操とは正面から争わず、東の孫権とは結び、まず荊州・益州(現在の四川方面)を得て第三の勢力として立つ。この構想に沿って劉備は歩みを進め、やがて魏・呉・蜀という三国鼎立の時代が現実のものとなります。
一人の人間が描いた構想が、そのまま一つの時代の形になった。これは歴史上でも稀なことです。「一つの時代を作り上げた人物」と評される所以です。
蜀漢の丞相として
蜀漢が建てられると、孔明は丞相として国政の中心に立ちます。劉備の没後は、その遺言を受けて幼い後主・劉禅を補佐し、実質的に国を背負いました。
その仕事は軍略にとどまりません。
戎(じゅう=異民族)を治め、南方を平定して背後を安定させたこと
民を理め、法をととのえ、農を興し、小国でありながら国力を保ったこと
策を建てるにあたっては急がず、緩やかに謀りごとを巡らせたと記されています。焦らず、ととのえ、機を待つ。その姿勢が、国力に劣る蜀漢を長く保たせました。道院に伝わる略史は、蜀漢に三十余年仕えたと記しています。
そして最期は、北伐の陣中 五丈原で世を去ります。
史書の評価
正史『三国志』の著者・陳寿は、諸葛亮を統治の良才として、管仲・蕭何になぞらえて評しました。管仲は斉の桓公を覇者に押し上げた名宰相、蕭何は漢の高祖を支えた大功臣です。中国史上でも最上級の行政家と並べられたことになります。
道院の略史はこの評について、「信じるに足る」と述べています。詳しくは『三国志』本伝に記されているとおりです。
神才とも称された知略と、至誠の忠義。この二つを一身にまとった生涯こそが、のちに神号を受ける基となりました。
道院における昌佐神
統院の副掌籍として
道院では、昌佐神は統院に副掌籍としてお祀りされています。生前に丞相として国政を統べたその働きが、そのまま神界での役目に重ねられているかたちです。
五献典礼
道院の儀典には、神々の位に応じた形式があります。
最も格式高い形式が、至高神である至聖先天老祖に対して行われる六献典礼。昌佐神の儀典は、それに次ぐ五献典礼という方式で執り行われます。
これは道院において昌佐神が至高神のすぐ次に位置する、きわめて高い神格として遇されていることを意味します。
扶乩に現れる「臥龍山人」
扶乩には、昌佐神もたびたび顕現され、過去の会報を見ると、幾度となく訓を残されています。
昌佐神の自称は「臥龍山人」、あるいは略して「山人」。
南陽で畑を耕していた頃の「臥龍」の号を、神となった後もそのまま名乗っておられる。
名を求めず草廬にあった日々を、いまも自らの本来の姿としておられるかのようです。名乗りのあとに、訓が述べられていきます。





