済仏
さいぶつ
道院において訓示や霊筆の書画を授ける掌籍です。
解説
済仏は、道院の乱壇に降りて老祖の訓示を伝えることが最も多く、また書画壇にも降りて霊筆の書画を賜わることも度々ある、慈院の掌籍です。
出自と誕生
聖哲略史によると、済仏は現世に居られたとき、姓を李といい、中国浙江省天台県の人でした。南宋の高宗の時代、父の茂春は京営節度使を務めていました。部下に対して慈愛深く、人々に仁恵を施すことを好んだため、一般からは長者とたたえられていたといいます。
茂春は国清寺の長老・性空と親しく交わっていましたが、子に恵まれなかったため、夫人の王氏を伴って寺で祈願しました。すると、紫金の羅漢が地に伏せるのが見え、性空はこれを大いに喜んで祝詞を述べました。
やがて夫人は、羅漢から五色の蓮花を贈呈される夢を見て懐胎し、夜明けがたに太陽を呑む夢を見たときに子が生まれたといいます。それが済仏です。時に紹興八年(西暦1131年)五月十六日のことでした。
幼少期と学問
済仏は生まれると、その泣きかたが甚だしく、一通りのものではありませんでした。性空が一月ほど経ってから訪ねてみると、嬰児は坊さんの顔を見てにっこりと笑い、性空と笑い交わしました。
次第に成長するにつれ、顔かたちは上品で特色がありました。八歳のときから書物を読み、その神智は超絶で、興に乗れば読唱を止めず、そうかと思えば終日黙って静坐し、心に得るところがあれば天を仰いで狂気のように笑うのでした。この様子を見る人々は、不思議な子もあるものだと感心したといいます。
十二歳の頃からは、あらゆる方面にわたって広く書籍を読みあさり、禅の理にも通じるようになりました。
出家と大悟
ある日、済仏は祗園寺に遊びに行きました。かねてより性空から話を聞いていた長老の道清は、済仏に出家して僧になるよう勧めました。しかし済仏はこれを断り、次のように述べました。
「自分には兄弟がなく、しかも父母が健在である。どうして世を捨てて僧になることができようか。これが反対の理由の一つである。また、儒教の経典にまだ徹底していないのに、どうして仏教上乗の精微に参ずることができようか。これが反対の第二の理由である。さらに、この頃では最上の高僧も、また以心伝心の尊者もいない。これが反対の第三の理由である。」
道清は「老僧は参禅すること数十年だ。お前さんが道を聞くのに何も心配せんでよかろうが」と言いましたが、済仏は「老師は充分にお年を召しておられる。身のうちの霊光がどこにあるか、よくご存じでしょう」と返しました。これには道清もすぐに答えることができませんでした。
その後、父母は相ついで亡くなり、済仏は葬儀に万端の礼を尽くしました。時に二十二歳でした。舅が嫁をめとるよう勧めましたが、聞き入れませんでした。そのころ遠公が霊隠寺に来て滞在していると聞き、急いで寺に赴き、ついに落髪して出家の身となりました。
ある日、遠公に目通りして啓発を求めたところ、遠公は「お前の性質は甚だ激しい。これは今さらのことではない。今急にこう求めるなら、前に進め」と言いました。済仏が喜んでそのとおりにすると、遠公はだしぬけに立ち上がり、その顔面をつかんで地上にひき倒し、「汝自ら、未だ何れより来りしかを知りもせんで、老僧に向かって行くところを尋ねるか」と大喝しました。
済仏はここにおいて裕然として大悟し、狂喜して跳び起き、遠公の胸に頭突きを喰わして飛んで逃げました。遠公もまた大いに喜んで大呼一番したといいます。





