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日本総院(東京総院)六十周年と戦後の歩み⑨ 扁額「誠正和平」の濟佛訓

     本年農歴壬寅十月一日、2022年10月25日(火)に東京総院は六十周年を迎えるにあたり、総院が創立するまでの経緯をまとめています。今回は、総院の扁額「誠正和平」を解説された濟佛訓を翻訳しました。この訓文は過去の会報に一部分のみが掲載されましたが、その後、全文が掲載されることはありませんでした。総院の意義について皆さまの参考になれば幸いです。

 

甲辰年五月二十日處科(一九六四年六月二十九日)

 

濟佛訓

 

道心唯一(道の心はただ一つ)

運化自然(運化自然にある)

人心不一(人の心は一にあらず)

失乎自然(自然を失っている)

 

「運化自然」とは運(※)を以って、化を以って、道心へと自ずとなることである。並びに因循(古い習慣に固執すること)に非ず。以ってその智を言えば、日月の如く明かで、以ってその仁を言えば天と同体であり、以ってその勇を言えば一切の懼(恐)れがない。

「失乎自然」とは、則ち道に非ざる心の運化である。種種の人心はこれを因として起こる。時には道心が一現するが人心により惑わされ、自然の運化妙用を昭らかにすることができない。

  吾が院の修行する所を以って、吾が人心を修め、道心を成ずるなり。己を化す人の行は、天の行いに合し、故の法(古い法、しきたり)、天の法、地の法に於て自然なり。

院会の掌長(統掌、副統掌など)、監職(院監など)は天地の日月の如くなり。以って光明にて衆生を普く照らす領導の表率(手本)なり。各院の掌籍は五行の運のごとく相生相成し、各職籍は衆星の羅(※)である。各々、翊贊(補助)の功能の運化を有し、乾坤の並列は陰陽の相感なり。

これら天職の重要さを知る可し。その任ずる命は甚だしく、偉大を為すを負う。職方は修人の表率(手本)を為し、修方は世の人の先導を為す。

しかし、世の人は修せず。同じ咎が修人に在り。修人、これ修すといえども未だ善を完するに至らず。同じ責は職籍にも在り。職籍は妙用に未だ至らず。同じ責は掌長にも在り。掌長の表率(手本)は圓満に未だ達せず。同じ責は仙佛にも在り。

存心を為すを以ってこの如く、警惕(用心)を為すを以ってこの如く、求修を為すを以ってこの如く、勉励を為すを以ってこの如く、安じざる處を中心とし、未だ尽くせざる天職の處に、仙佛は諄々と啓導する。これにより吾の人心はいくばくか化去され、吾の道心は若干修復し、吾が行は天の行といくばくか合し、吾の明は日月に幾らか許する(近づく)。時時、省察を為し、事事、必ず須らく衡量する。このことを事の前に明らかにし、功候を修め進むなり。

事が過ぎて悟ればまた功候を修め進むなり。過ちを改め修し、自らの新生へと進むなり。過ちを改め、自らを新しくし、入聖超凡の階梯を為す。超凡入聖を欲するのであれば、必ず先ず吾の過ちを知ること求める。吾を悔する行、吾を審するところに存し、(このように)吾を験してこそ眞である。この方法により日々、益が進み、功が進む。

常に人は、人生の宝貴とは何かを知らない。後天の得失や栄辱に囿(囚)われていて修があるところを迂闊と視る。天職の尊崇よりも、後天の物欲のほうが良いとする。そのため刼刼の相因が到り、數數が相成する。道心の現れは、預感の昭と共に茫々(判然しない様)することとなる。數より逃げるは難しいことを未だこれを悟っていない。數より逃げ出することも、またこれも明らかに知らない。

仙佛が慈をなすところは、将来に數と成る未成のに於てである。院會の乾坤、各掌長監の職修の各方よ、(これを)明かにしたことを以って悟れ。共同に運化を努力せよ。

雖も根本を化除することを未だできていない。その潜移黙転の功、已に偉大な効果を成してはいるが、化運は一時に在るに非ず。必ず須く時々刻々、合力し、勉進せよ。無形に大功行を更に期する。院會の乾坤、各掌長監の職修の各方よ。各人が負う所の偉大な天職の任務を善悟せよ。宏大願心、以明以悟、以求以修、以勉以進、以惕以覺、厚く望むこと有り。

 

秀和(笹目秀和氏)、本(香港総母宗)に到る。嘉すべきなり。子(笹目氏)の誠心宏願、台湾にて道慈を修進すれば、更に進益有り。道慈宣闡の東瀛(日本)の砥柱(大黒柱)と為すにふさわしい。茲に更に勉めるところあり。東瀛の額は「誠正和平」である。この四字はすでに宏深な意義を包涵している。各方が未だこれを求め、研を加えないことを惜しむ。明澈することを期待するなり。

これを略言してみると「誠」とは天の道を為すにある。我々、道を修する人の誠とは天の心が一切自然に及ぼして成るが如く、少しの無理もなく、水の低きに流れる如く、大自然の化育に参ずる態度に合することである。

「正」とは自然の正軌である。自分自身の心を正しくして、人の心に及ぼし、以て世人の心に及ぼすのである。世人の心が能く正しくなってゆけば、知らず知らずの間に自然の正軌に合することになるものである。

「和」とは、春風がそうっと人の顔を撫でてゆくようなものである。このように爽やかな、なんらの抵抗のないやわらかな感じを以て人を化することの偉大な効果を、まず修道人自ら為し始めなければならない。

「平」とは、一切の災患難を平にすることである。その平を得ようとするならば、必ずまずわが院の坐を励むことによって、そこから生ずるところの悟りから始めなければならない。それにはまず吾が心、吾が気を平にして、微塵の不平もなからしめなければならない。

このようにして誠正和平の四字を拡張発展せしむることは、皆一個の修人、吾よりなし初めなければならない。毎字には毎字の真解があり、毎字、毎字の工夫があって、四字ことごとく能く真意義を発揮し得れば、はじめて世界は太平を期することが出来る。衆生は皆、天国に上り、修人はことごとく仙仏となる。

こうした工夫はなかなか難しいことは事実であるが、意義を知らず求めず、為すことも無く、明することも無いままにしておったならば、それこそ永遠に成道する日はないであろう。かつ、吾が荷うところの天職と大責任宏願を放棄してしまったならば、道は一体何処に在りというべきか、慈はいずれに存するというべきか。そうなった場合、吾が身、仮合の体などという物の存在意義などあったものではない。

  初歩の基礎は、坐誦に在り。坐はおのれの人心を化し、道心に復する。誦は霊に貫通し、善悟の機を開く。無形の数を化すことを以って、宣闡道慈の真諦を志し、修行を実践し、大願を勉めるを為すことを望む。天然正軌に於て悟り、和を以って平を以って、運を以って化を以って、将来、成就することは、汝(笹目氏)が叩くところより大きいものである(※)。吾が道の運化、神奇(奇蹟)は自然正軌の中にある。神奇とは、世の人が謂うところの神奇(超常現象の類)に非ず。靜すれば天とともに蘊し、動すれば天と合する。寂然虚空、一感即通、一通即化、全ては霊の妙用を悟修するを為す。この神奇は宇宙間の真の神奇なり。以って子(笹目氏)の慧によって憚らず諄々と説いた。能く明悟するために、切磋し研行すれば、前途は計り知れない。これを悟り、勉めよ。特別に統寶三尊を賜う。出発時、一尊を服し(※)、(日本に)到着後、一尊を服せよ。一尊は上身に佩し、困するところあれば先ず佩している統寶を机に供え、その前にて恭しく  聖號を百称する。然る後に恭しく本日の訓に参ぜよ。必ず啓悟有り。

 

※運:自然の起こる作用、自然の運行。運勢のことではない。

※衆星の羅佈:星々が絹布ようにたなびき、広がっている様。

※汝が叩く~:笹目秀和氏が御神前にて、叩礼した時に祈った内容のこと。笹目氏著作の『濟佛伝』より以下抜粋します。

「香港総処の御神前に額いた時『吾れ、今台湾道院に於て修道し、これから日本に帰って大道院を創るのに、先ず三億六千万円を必要と考えている。それには一つの奇蹟を行い得る力を与えて下さること、例えば線香を燃やした灰をオブラートに包んだだけで病気が治った、というような奇蹟を行わしめ給うこと」と申し上げたのである。しかもそれは、ただ黙祷しただけであった。しかるにその黙祷に対して明らかに、和・平・運・化を以って天然の正軌を悟るようにすれば、汝の叩く(黙祷)ものより多大なものを得られると。太鼓判を押して下すったのである。」

※統寶を服す:統寶を燃やして、その灰を水に浮かべて飲むこと。

 

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