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常儀礼、太上老君(老子)・岳聖の誕日祭典(太上老君略史・岳聖略史)

扶乩(書画壇)による岳聖の書

 

   辛丑年二月十五日(2020年3月27日)に常儀礼と、太上老君(老子)と岳聖の誕日祭典、祀霊室の新しい神位の遷座を行いました。ご参加くださった方々、深く感謝いたします。

   それでは『聖哲略史』から、太上老君(老子)と岳聖の略史を転載いたします。

 

Wikipediaより

太上老君(老子)

姓は李、名は耳、字は伯陽。また別の號を老聃(ろうたん)。

  商王朝の陽甲帝の時に、神より分かれた気が玄妙玉女の胎内に宿った。その後八十一年間胎内にあり、武丁(皇帝の名)の庚辰年二月十五日卯刻(朝5~7時)に生まれた。場所は苦縣瀬郷曲仁と言われ、李樹(すもも)の下で母の左脇から生まれたといわれる。この李樹を姓とした。生まれた時から白髪で、故に老子と称した。

  周の文王の時代は守藏吏となり、武王の時には柱下史となる。昭王二十三年の時、青牛に乗り、函谷関を過ぎようとした。その際、関令の尹喜は、老子に道を求む。老子はこれに応え、『道徳經』五千言を説く。敬王十七年の時、孔子が礼について老子に質問した。孔子は退くと、まるで龍のようであったと嘆息したと言う(※)。

  赧王(たんおう)九年の時、崑崙へと飛翔した。伝説では、秦の時代では河上公と号し、安期生(※)に道を授けたという。漢の文帝の時代では廣成子と号し、文帝に老子章句四篇を授けた。その教えは治国治身の要を言い、「隠顕莫測。變化無窮。以無為為依歸」である。これが道教の宗である。

※老子と孔子の逸話:孔子は老子に礼について問うと、老子に自惚れを婉曲に指摘され、その後に孔子は弟子たちに「鳥や鹿は大きな龍の全貌を知ることができないが、今日はその龍に出会ったようだ」と嘆息したという。

※安期生:秦の始皇帝と会話した仙人。その後、蓬莱山に住んだという。

 

 

Wikipediaより

岳聖(岳飛)

   名は飛、字は鵬舉。相州湯陰の人。農業に努力する。父の名は和で、節食し飢者を救う。自分が耕した土地を侵す人がいれば、すぐに土地を割しその者に与えた。財を貸し、その財が返らずとも責めることはなかった。母は姚夫人。岳聖誕生時、大きな若鵬(数千里の大きさを持つという伝説上の大鳥)が居室の上を鳴きながら飛んだ。それに因(ちな)み鵬舉と名づけた。生まれて一か月も経たないころ、河が決壊し、大水害となった。母は岳を抱いて甕の中に逃げると、濤(大波)がその甕をさらったが、岸に押し上げられ逃れることができた。人々はこの異に驚いた。

   少年のころは気概があり、落ち着いており寡黙であった。家は貧しいが努めて学び、左氏春秋伝、孫子呉子の兵法を最も好んだ。神力を有し、まだ成人もしない頃に三百斤の弓、八石の弩を挽いた。周侗(※)に弓射を学ぶ。周侗が亡くなると、その家において朔望に祭り(※)、母はこれを義とした。

  後に募兵に応じ、従軍する。母のその背に涅(入れ墨)し「精中報國、以平賊功(国に精忠し、以て賊を平し功を立する)」と刻んだと伝わる。戦いを進め大尉となるが、その功績に対し少し報われただけであった。これは秦檜(※)が國にあったことによる。未だ志を尽くせず、遂に秦檜の「莫須有(※)」の三字によって冤罪に処され、死罪に処される。

  帰道後に、追封(追贈)され、現在は関聖(関羽)とともに武廟に合祀される。宗史本伝に詳しい。

 

※周侗:しゅうどう。?~1121年。武術家。特に弓の名手とされた。

※朔望の祭り:農歴の一日を朔、十五日を望といい、この日に先祖供養や神への祭典を行う。道院の常儀礼も朔望に行われる。

※秦檜:そうかい。南宋の宰相。岳飛などの政敵を倒し、恐怖政治を行ったと伝わる。

莫須有:岳飛を糾弾した秦檜が発した言葉。謀反の疑いが本当にあったのかを秦檜が問いただされた時に発した言葉。訳すると「(罪が)無いとは言えない」。この曖昧な事実のもとに処刑されることになったため、現代でも人々に記憶されている。

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