先天坐法の主旨

先天坐法の主旨
本稿では黙真人が訓示された先天坐法の要点を編集して掲載します。
先天坐の主旨「平」と「黙」の二字
先天坐の主旨はただ「平」と「黙」の2字に集約されます。
平というのは、如何なる事に対しても平を以てし、如何なる人に対しても平を以てすることです。
自分の平を修める工夫がどうであるか、黙を養う行程はどうであるかを、一体どうしたら知ることができるでしょうか。
その事について真経に多く啓示されていますが、はっきりと省察し、明瞭にすることができない者がいるので、ここに再び平易にこれを論じてみましょう。
「平」を修める 心火の下降
平を修め、その功が進む時には心火が下降します。
この心火が下降したか否かについておろそかにしている者がいます。
そのような修方はどうしたらそれ(心火下降)を知ることができるのだろうかと言うでしょう。それを知ることは決して難しいことではありません。
一たび反省の功があれば、すぐに分かります。心火が下降した時には、心身が恬適和平(おだやか)で、清爽(さわやか)さを感じます。
それは自分だけが感じるのではなく、他人であっても、その人の近くに来て感応したときには又これを知ることができます。
これは小さな現象のようですが、実に人を救い世を化すところの根本なのです。
和気は春風のように人に好感を与へます。
たとえ相手の方に不平の気があっても、こちらの方の和気を感じれば必ず無形のうちに応じてきます。
そうでなくても最低限、相手の方の不平の気を増長させるような事にはなりません。
「黙」を養う 腎水の上昇
黙すれば則ち腎水が上昇し、頭部の脳海に逆入すれば、耳目は明瞭となり、手足は軽くゆるやかとなります。これは分かりやすい徴候です。
この徴候と相反している者は、自分の内修を如何に改めるべきかを知ることができます。これがすなわち省察の工夫です。
実を練る工夫 不動心
実を練る工夫は、不動心を練ることにあります。
心が妄動しない者は気も妄りに動かず、気が妄りに動かなければ、則ち気が自然に巡るのです。しかし気が一たび妄動すれば、則ち自然の軌道から散ってしまいます。
七情の妄動と気の激動
たとえば七情(喜、怒、哀、懼、愛、憎、慾)が生じてくると、まだ自分の心の中にあって、口に出さなくても、他人は一たび見ればすぐにわかります。
それはなぜでしょうか?
心は気によって動き、色が顔に現われるからです。最も顕われ易いのは怒気です。
少しでも動くところがあれば、顔色や目の光など、その外に現われるものがみな違ってくるし、言葉や語気もまた変ってきます。かつまた体内から客火が強烈に起きて、気が内に激動すると心は動転し、気がつまると喘ぐようになります。
気の激動は、あたかも波静かな海に突如として大波浪が捲き起るようなもので、それを修養について言えば、すでに成就している静功も一朝にして余すところなく破壊されてしまいます。
それだけでなく一身においても疾病を生じることになります。このような時に、もし気の不平な人に遭遇すれば禍害はたちどころに現われるのです。
孟子の不動心
孟子は気を養う功が純粋だったので不動心を得ました。
不動心となれば気も不動となります。気は不動を以て養うことができるのです。
天より授けられた気を全うする
われわれが天より授けられた気は、先賢に較べて少いということはありません。
しかし先賢に較べてこれを多く損なっているので、したがって先賢と比べようがないのです。
もし日々の犯し易い病を知り、努力して克服すれば、自分自身にとって大きく稗益するところがあるだけでなく、その功の至るに及べば正充(炁の正充、二気の合一)を得、善霊は光明円大となって、自分月身及び衆生の劫数を化し、気一成胞の楽しみを得、息息する功はなんと素晴らしいことではないでしょうか、何と美しいことではないでしょうか。
これは志のある者の修行次第、諸君の努力次第であります。
※昭和六十一年一月号会報より





