演劇についての老祖の戒め

演劇についての老祖の戒め
1923年1月19日、沂水道院における扶乩の壇で以下のような訓示がありました。
訓示
「歳月は常に変化し、天地も時々変遷するが、精神に団結(合霊)があれば、仙佛は変わらずそこに臨在する。
今日この地で開催されている演劇に、吾は自らこれを楽しみ臨みたいとは思わないが、ここに至る途上、吾徒慧(慧聖)が諸仙を率い、各方の誠意を以て迎えに参じた為、ここに来ている。吾は各方に演劇について話をしよう。
舞台に臨む演者は、青きお面を被り、衣装として官服を纏い道具を持っている。平民役の男女は、ある時は歌い、ある時は泣く。鑼鼓(鳴り物)が止めば皆舞台から退場し、誰もいなくなる。このような演劇からどのような意味を汲むことが出来るだろうか。
現世の世界は、これら演劇と全て同じようなものではないだろうか。
ここに男女がいる、夫婦、父子、君臣がいる。権力を以て国家を造り、俸禄により英雄らを雇い、人生において色々と、奇々怪々なことが数十年続き、何かが生じ、何かが滅ぶことを吾は見続ける。
吾が心には人類に対する哀れみの思いが起きる。神が演劇を見て喜ぶことがあるだろうか。
今後、各位は誠心だけを以て天に祈祷すべきで、何ら飾り立てる必要は無い。
この演劇に使われる費用を、世に施し、救済に役立てればどれほど有効だろうか。
天はそのような誠心(楽しみを我慢して費用を福祉に回す)の祈りに応えないことは無いのである。」
以上
解説
この壇訓は1923年の判示です。老祖が演劇について一言を語られた記録です。
神の視点からは人々の現実の人生と、人々が愛好する演劇の間に何ら違いは無いのに、何故世の人達はこれほど演劇に夢中になるのだろうか、これにかける費用があれば世の福祉に使えば良いではないか、という思いを述べられた少し珍しい記録です。
勿論、演劇には芸術としての意味や経済効果、伝統の継承など様々な要素がありますし、人生には芸術を愛好する意義があるかと思います。
それでも高き天にある神の目には、演劇に過度に熱中する人間の行動が不思議でならないのかもしれません。
自分たちが既に人生という劇場の出演者なのに、更に劇中劇に夢中になるのは何故か?とお感じなのかもしれません。
かつて京劇の四大名人と言われた梅蘭芳が、求修をしても最後までお許しが得られなかった事は修方が皆知るところの事実です。
俳優、役者という仕事は修道の面から見ると、中々難しい立場なのかもしれません。





